神様のことばで洗われて、リフレッシュされよう | Joseph Prince | New Creation TV 日本語

神を讃えます 皆さん おはようございます お元気ですか? 神が先週私たちに与えてくれた 聖書箇所を覚えていますか? ある男性が外国語を学ぶために 用いたあの聖書箇所です それによって彼の思考は 研ぎ澄まされていきましたよね 神は先週 こう語ってくれましたね 「もしあなたが思考能力の低下や」 「認知能力の低下に さらされているならば」 「この聖書箇所を 宣言していきなさい」 暗記しましたか? いいですね では準備はいいですか? 一緒に暗唱していきましょう 私たちは今 神の存在感に包まれていて 神がご自身の言葉を しるしと不思議をもって 確証してくれることを 信じていきます そしてあなたの子どもたちや奥さん 旦那さんはこう言うでしょう 「うわ〜忘れっぽいあなたが そんな暗唱聖句をできるなんて」 神の言葉によって あなたの記憶力は回復するでしょう 私はキングジェームズ訳を 暗唱しますが 皆さんは自分がそれぞれ暗記した訳で 暗唱してください それではいきますよ 詩篇92篇です いきましょう "正しい者は なつめ椰子の木のように萌え出で" "レバノンの杉のように育ちます" "彼らは主の家に植えられ 私たちの神の大庭で花を咲かせます" "彼らは年老いてもなお 実を実らせ" この"年老いてもなお"という部分を ちゃんと暗記していましたか? "彼らは年老いてもなお 実を実らせ" "青々と生い茂ります" "こうして告げます 「主は正しい方」" "わが岩 主には偽りがありません" 最後の方に来たら 声が小さくなったようですが とにかくこの箇所を 暗記しておいてください アーメン? "正しい者は なつめ椰子の木のように萌え出で" 今話すことは 以前にも話したことですが 神がもう一度今これを話すようにと 促しているのを感じます "正しい者は なつめ椰子の木のように萌え出で" とありますが なつめ椰子の木は特に これといった理由もなく萌え出でます 神が何かをあるものに 例えるとき そのあるものについてを よく調べましょう なつめ椰子の木は とても長生きです 最近イスラエルで ある実験がなされました それはなつめ椰子の 2000歳の種が 芽を出すのかどうか という実験でした どうなったと思いますか? それは芽が出たのです 芽が出たのです そしてこれは グーグルで調べればわかりますが 今その木は 「メトセラの木」と呼ばれています ではこの箇所にある 「正しい者」 つまり「義のある者」とは 誰のことですか? あなたのことです 私たちはキリストにあって 神の義だからです ということは私たちは なつめ椰子の木のようなのです アーメン あなたは長く この地上で生きることになりますよ その約束を主張してください 他にもこのイザヤ書には 次のように書かれています "わたしの民の寿命は 木の寿命に等しく" 神は「世界の民の寿命は」 とは言わず 「わたしの民の寿命は」 とは言いました "わたしの民の寿命は 木の寿命に等しく" 「神様この約束を イエスの名によって受け取ります」 アーメン あなたも受け取ってください 神を讃えます イエスありがとう ハレルヤ それでは皆さんご一緒に アーメン それではヨハネ13章 上階の広間についてに 入っていきます もうそのビデオを見せる必要は ありませんね その上階の広間で生きる年に ついてのビデオは もうYouTubeで見れるように なっています まだ見ていなかったら ぜひ見てくださいね そのビデオは チームが一生懸命作ってくれたものです 今日はそのビデオを見る時間は ありませんが チームの皆には 本当に感謝しています え、今見たかったですか? いやその時間はないようですね 言っておきますが 私はちゃんと 時間を気にしていますからね だけどその上で聖霊が私たちに 目を留めてほしいと願っていることを しっかりとお伝えしたいのです それ以上でもそれ以下でもありません アーメン ウリムとトンミムが きらめいている部分を 皆さんにお伝えしたいのです ではヨハネ13章です これは上階の広間で生きることの 始まりの章です 上階の広間に見られる 一つの特徴は それが地面に触れていない という点です つまり上階の広間で生きる ということは 天上で生きるということです 先週のメッセージでは 私たちがキリストと共に天上で 座らされているということを話しました どうか次のような告白を 定期的にしてください 「天のお父さん」 「私がキリストと共に十字架に 架けられたことをありがとう」 神があなたをキリストの中に 置いたのは歴史であり 十字架の時点で すでに起こったことなのです あなたの中で 罪を犯したがる部分は あなたと神を 断絶させている部分は あなたを神のいのちから 切り離している部分は あなたに 多くの問題をもたらしている アダムから引き継いでしまった その部分は キリストと共に 十字架に架けられたのです だからキリストが死んだ時 私たちも キリストと共に死んだのです キリストが埋葬された時に 私たちも埋葬されたのです キリストが蘇らされた時 私たちも蘇らされたのです そして私たちはキリストと共に 天上に座らされているのです その天上こそが 上階の広間でしたね そして私たちが保つべき 二つの姿勢があります その一つの姿勢とは 神が来たるべき 世々に示してくれる 私たちに対する限りなく 豊かな恵みを見る姿勢です そしてそれは キリスト・イエスにあって 私たちに与えられた慈愛によって 示されるものです ではそのエペソ2章の箇所を もう一度見てください "神はまた…私たちをともに… 座らせてくださいました" それは来たるべき世々に 何かを示すためでした ではその示されようとしている 何かとは何でしょうか? それは神の限りなく豊かな 恵みです それを見ることを待ち望むのが 私たちが持つべき姿勢です そしてこれが「来たるべき世々」と 複数形であることに注目してください つまりこれは 今の時代も含んでいます その時に始まり クリスチャンたちはずっと 自分の目の前に示される 神の豊かな恵みを見ることを 期待し続けるべきなのです そしてこれは 世の中の人たちではなく 神の子どもたちに対する約束です それでは皆さんご一緒に アーメン アーメン "それは キリスト・イエスにあって" "私たちに与えられた 慈愛によって" "この限りなく豊かな恵みを 来たるべき世々に示すためでした" 「豊かな恵み」でも よかったはずなのに 「限りなく豊かな恵み」 ですよ 最高ですね ヨハネ13章で イエスが弟子たちと一緒にいた 上階の広間は 120人もの人が入れるような 広い部屋でした ペンテコステの日には その広間にいた人たちに 聖霊が降り注がれ教会が誕生しました その前にイエスはオリーブ山から 目に見える形で 肉体も一緒に 天に昇っていきました そしてその場には 2人の天使がいました 私はそのような状況下にあっては その2人は 大天使ミカエルとガブリエル であったと考えています それはともかく その2人は弟子たちに言います "「どうして天を見上げて 立っているのですか?」" "「あなたがたを離れて天に上げられた このイエスは」" "「天に上って行くのを あなたがたが見たのと同じ有様で」" "「またおいでになります」" この「同じ有様で またおいでになります」とは イエスが目に見える形で 上って行ったのと同様に 「戻ってくる時も目に見える形で 戻ってくる」ということです 最近では次のような教えが 多くあります 「携挙など起こらない」 「『イエスが戻ってくる』とは 抽象的な意味でしかない」 「それは霊の世界で目に見えない ところだけで起こることである」 だけどこれらは偽りの教えであり 悪魔があなたから祝福された希望を 奪おうとして作った教えです 天使が言った言葉に 耳を傾けてください 目に見える形で"「あなたがたを離れて 天に上げられたこのイエスは」" "「天に上って行くのを あなたがたが見たのと同じ有様で」" 目に見える形で "「またおいでになります」" アーメン では復活した肉体を持つイエスは 今日どこにいますか? 神自身である 子なる神イエスが 神に愛された御子であるイエスが こう言ったことがあります 「あなたはわたしに 体を備えてくださいました」 イエスはそれ以前 人ではなかったけれど 人となることを選んだのです 肉体を持つことを選んだのです そしてイエスは 永遠に体を持つ者となりました 奴隷であり続けることを 自分で選んだ ヘブル人の奴隷のようにです 神が十戒を与えたすぐ次の章には ヘブル人の奴隷についての 決まりが書かれています その決まりで定められていたのは ヘブル人の奴隷は 6年間仕えた後で 7年目には自由の身として無償で 去ることができるというものでした そしてこの決まりは 神の御子が全ての人を 奴隷の縛りから解放することを 指し示しているものでした 奴隷の縛りとは 人身売買による 実際の奴隷のことだけではありません 私たちは 罪の奴隷になってしまうことも 破滅の奴隷になってしまうことも 鬱の奴隷とされてしまうことも 薬物の奴隷となってしまうことも あります アルコールの奴隷の人もいます 自分のエゴの奴隷となっている人 もいます そしてそこから 抜け出すことができません 彼らはこう言います 「いつでもこれはやめられるよ」 「中毒になんてなってないさ」 だけど実際はやめられません つまりその対象物に 奴隷として縛られてしまっているのです 例えば薬物であるならば 草ごときが 彼らを支配してしまっているのです でも神が人を造った時 もともとは人が 草も含める地上の全てのものを 支配することになっていました でも今となっては その草ごときに跪き それがなくてはどうしようもない ような状態になってしまっているのです だけど皆さん聞いてください イエスは地上に来て奴隷となることで 私たちを自由にしました イエスは 自ら進んで奴隷となったのです 先ほども言ったように ヘブル人の奴隷は 7年目には自由とされるように 定められていました だけどその奴隷が 主人の元に留まることを自ら選ぶならば その主人は その奴隷の耳にピアスを刺しました そしてそのピアスは その奴隷がその主人の元に留まることを 自ら選んだことを示す印でした イエスはそれをしたのです イエスは人の肉体を持つことを選び 父にこう言いました 「父さん わたしは人類を自由にするために」 「永遠に人となることを選ぶよ」 そしてイエスは突き刺されて 穴を開けられました だけどイエスが 神でなくなったわけではありません 何度も言うまでもないと思いますが イエスは常に神です 今話していることの大前提は それです だけどイエスは人として 私たちの一人として天に上がったのです イエスは天の至聖所に 栄光を受けた人として入り そこに座りました イエスが神を現す者として 地上に降りてきたのと同様に 今イエスは栄光を受けて 天に上げられた人として 私たちを代表して 天で神の前に立っているのです アーメン 今やそのイエスが 私たちすべての雛形なのです 私たちはもはや アダムの子どもではありません いいですか? 聞いてください 私たちは今物語に例えるなら ナルニアの地にいます 私たちは今この場所にいますが 王であるライオンのアスランは 死にました アーメン しかしその彼の死によって 死は打ち砕かれたのです ハレルヤ そして彼は今 人として天にいます そして私たちのアイデンティティはもう アダムの子どもというものでは なくなったのです いいですか? 分かっていただけましたか? 私たちは 次のように言いがちです 「人だから これは仕方ないよね」 「あれも 受け入れるしかないよね」 だけど今 私たちは神の子どもなのです アーメン この世において「私たちも キリストと同じようである」です イエスは過越の日の前夜に 弟子たちにこう言いました "「いいですか?都に入ると 水がめを運んでいる人に会います」" "「その人が入る家まで ついて行きなさい」" 普通水がめを運んでいるのは 女性でしたから これは独特で 目立つ印だったと思います 当時のエルサレムでは 水を運ぶのは女性の役割であって 男性には他の役割がありました 水がめを運んでいた彼女たちは 強かったはずですね 体幹が強く 背筋もピンとしていたはずです 水がめを頭に乗せて 運んでいたのですから きっと堂々としていた ことでしょう アーメン だけど現代ではそれが失われて しまっていませんか? 体を屈めて ドラマばかり見ているから それじゃ首に痛みを抱えるようにも なりますよ だけどそんな原因で 首が痛かったとしても イエスは その痛みを癒してくれます とにかく当時は 女性が水がめを運んでいました えーかわいそうとは 思わないでください それによって彼女たちは 堂々としていたはずだからです アーメン だけどこの時イエスが 「ついて行きなさい」と言ったのは 水がめを運んでいる男性でした そしてその彼が上階の大きな部屋に 連れて行ってくれたのでした ではその上階の広間での シーンに入っていきます "さて 過越の祭りの前のこと" "イエスはこの世を去って 父のみもとに行く" "ご自分の時が来たことを 知っておられた" ちなみにこの時イエスと弟子たちは 上階の広間にいます "そして世にいる ご自分の者たちを" "愛してきたイエスは 彼らを最後まで愛された" この上階の広間での シーンの始まりは最高ですね "世にいるご自分の者たちを 愛してきたイエスは" これはあなたのことでも ありますよ イエスはあなたを最後まで愛された ここで「最後まで」と 訳されているギリシャ語は eis-telosで「極限まで」 と訳すのがふさわしい言葉です つまりイエスは 彼らを極限まで愛されたのです この上階の広間は 愛の部屋です そして上階の広間は 天国を表しています だけどその地上での現れは 地域教会ですよ いいですか? 地域教会は神の夢です 聞いていますか? それは 使徒パウロに明かされました 使徒パウロは こう述べています "私は外国人に神の恵みを 示すという任務を" "神から受けています" "このことについては 前の手紙でも" "簡単にふれましたから もうすでにご存じと思います" ちなみに皆さんは ユダヤ人ではなかったら ここで言う外国人に 当てはまります ユダヤ人ではない私たちは皆 非ユダヤ人という背景を持ちながら 神の子どもとされた者たちです 神が地上の人を見るとき そこには 3つのグループしかありません 1つはユダヤ人 2つはユダヤ人以外 いいですか? そして3つが神の教会 この神の教会は ユダヤ人も非ユダヤ人もなく 1つです ここまでよろしいですか? だけど私たちの始まりは ここで言うユダヤ人以外の外国人でした 私たちは外国人として救われ 神の家の一部とされたのです そしてパウロは こう言っています "私は外国人に神の恵みを 示すという任務を" "神から受けています" "このことについては 前の手紙でも "簡単にふれましたから もうすでにご存じと思います" "外国人もまた神の恵みの対象 とされているという" "この特別の計画を神が 私に明かしてくださったのです" 神はご自身の計画を パウロに明かしました 何度も繰り返していますが このようにパウロは 神の特別な計画を 神から直々に明かされるという 特権に預かったのです パウロは恵みの福音を 私の福音とさえ呼んでいます では新約聖書の中で ヨハネが書いたものも ペテロが書いたものも ユダが書いたものも 読む必要はない ということでしょうか? そんなわけはありません それは今日の私たちそして教会にとって れっきとした神の言葉です アーメン だけど使徒パウロには 特別な啓示が与えられたという点も 私たちは忘れてはいけません ペテロでさえも パウロが書いたものの中には 難解なものがあると述べています 例えば まだ地上にいるのに キリストと共に座らされている という真理は 頭だけでは理解できませんね これは私たちの 霊的なポジションのことです それは実は物理的なポジション よりもリアルです そして霊的な事柄は 物理的な事柄にも影響を及ぼします 多くの人がまず目に見える 表面的なことを変えようとします そして世の中が提供できる変化は それのみです お医者さんがいて薬があることは 神に感謝すべきことです それがあるおかげで 信仰を知る時まで 生き延びられたという人も 多くいるでしょう だけどその源は神なのです 神は病気の人が回復するために お医者さんを用いたり 薬を用いたり他の様々な方法を 用いることもあるでしょう ある病気に対する 薬の発明アイデアを与え その開発の背後で働いているのも 神なのです だから私は医学を否定しているのでは ありません しかし神を その源として見ることなく 薬だけに頼ってしまうのは 過ちです 神に導かれて薬の助けを借りるのは 良いでしょう でも薬に 信仰を置いてはいけません それどころか現代では インターネットがあるので 多くの人が 自分で自分に薬を処方しています そして調べれば調べるほど 混乱して訳がわからなくなって しまっています それはやめましょうね しっかりお医者さんのところに 行って 薬を処方してもらってください アーメン 私は医学を信じています それは取り違えないでください だけど医学は自然の摂理を 超えることはできません しかし神は自然の摂理を 超えています 神は霊的な存在であり 霊の領域にいます アーメン そして神は目に見える世界を造った 霊的な存在なのです この世界で知覚できる すべてのものは 霊的な存在である神によって 造られたのです そして目に見えるもの 知覚できるものはどれも一時的です この肉体でさえも一時的です いつか私たちは栄光を受けた肉体を 持つことになります その栄光を受けた肉体は 物質でもあるのだけれど 永遠に続くものです うーんなんという 死に対する勝利でしょう 私は最近この教会の牧師陣に こう話していました 「神が与えてくれる死に対する勝利は 本当に素晴らしい」 「黙示録には 神が死んだ者を召集するとき」 「海は海で死んだ者たちを差し出す と書かれているんだ」 海で死ぬとはどういうことかを 考えてみてください ミスター ジョーズか 他のサメがやってきて あなたを噛み砕いて 飲み込んだとします 想像するだけでも 身震いがしますね あなたはミスター ジョーズの お腹の中に消えてしまった そんなこと考えたくもありませんね もう粉々で跡形もありません 海に遺灰を投げた場合も 同じです それは散らばって 跡形もありません しかし死に対する勝利は 本当に素晴らしいもので 神はそのバラバラになったものさえも 一つの体に戻すのです それはイエスが 十字架の死から三日目に 肉体を持って復活したときに 勝ち取られた勝利です アーメン 今日はこれを聞いて ハッピーに家に帰れますね アーメン 神を讃えましょう 今イエスが弟子たちに言った次の言葉を 皆さんに言いたくなりました "「あなたがたの目は 見ているから幸いです」" "「またあなたがたの耳は 聞いているから幸いです」" 多くの王やVIPたちが あなた方が見て聞いているものを 見て聞きたいと切に願ったけど 見ることも聞くことも できませんでした あなたには聖霊がいるから それができます これは聖霊によってのみ 理解できるのです 世の中の人たちは 五感のみで理解していて その知識は 五感によって得られたものです アーメン とにかくパウロには神の特別な計画が 明かされました "先に短く書いたとおり" "奥義が啓示によって 私に知らされました" "それを読めば 私がキリストの奥義を" "どう理解しているかが よく分かるはずです" "この奥義は前の時代には 今のように" "人の子らに 知らされていませんでしたが" この「前の時代」とは 旧約聖書の時代のことです つまり 旧約聖書の預言者たちさえもが皆 神がパウロに特別に明かしたことは 知らなかったということです いいですか? "…が今は" ご一緒に 「今は」 "御霊によって キリストの聖なる使徒たちと" "預言者たちに 啓示されています" "それは福音により キリスト・イエスにあって" "異邦人" つまりユダヤ人以外"も" "共同の相続人になり" "ともに同じからだに連なって" "共に約束をあずかるものに なるということです" これが奥義です これがまだ秘められていた からこそ イエスが天に昇る前に 弟子たちはこう考えていました 「イエスはいつ イスラエルを再興してくれるのだろう」 彼らの思考はまだ 「イスラエルが力を持つようになるのが 第一だ」 というユダヤ的思考だったのです 彼らはイエスが来た理由を まだ完全に理解していませんでした 確かにイエスはまず第一に イスラエルの家の失われた羊の元に来て 「神の王国があなたがたの近くに 来ている」と言って 神の王国を提供しました アーメン でも彼らは イエスを拒絶しました これは言い換えるなら 2000年間の合間が空いている ということです そしてその合間に教会の奥義が はめられているのです そして神の焦点は 今はそこにあります 私は神がイスラエルを 何かと取り替えたとは言っていません 違います 例えば 電車で考えてみてください 電車の車両には 後々には使われるけど 今は使わないから 脇に避けられているという 車両がありますよね 神の焦点は今 教会に当てられています そしてそれが始まって 今2000年が経ちました そして神の焦点が 教会に当てられているこの期間は 「恵みの時代」とも呼ばれています 気付きましたか? 恵みの時代は 律法の時代よりも長く続いたのです 律法の時代とは シナイ山で 神が十戒を与えてから イエスが地上でそれを終わらせるまでの 1500年間です そして恵みの時代は イエスの復活の時から 現在まで続いています それは2000年間です これはあることを物語っています それは神が一人も滅びないことを 願っているということです 神は待っているのです 世界が神に反抗し 神の名を冒涜し 神の存在を否定し 神が示す道を拒み続ける中でさえも 神は未だに待っているのです 人生の迷子になった息子を 待っている父親のように 彼は地平線に少しでも 息子の姿が見えたら 息子のもとに駆け寄っていきます アーメン では読み進めましょう "私は神の力の働き によって" "私に与えられた 神の恵みの賜物により" "この福音に 仕える者になりました" "すべての聖徒たちのうちで 最も小さな私に" "この恵みが 与えられたのは" "キリストの測り知れない 富を福音として" "異邦人に 宣べ伝えるためであり" "また万物を創造した 神のうちに世々隠されていた" "奥義の実現が どのようなものなのかを" "すべての人に 明らかにするためです" 消化しきれますか? それは 隠されていたのです ではその隠されていたものとは 何でしょう? それは恵みと教会です 教会とは 建物のことではありません 私たちが今集まっている スターシアターのことでもありません 教会とは多くの器官を持つ キリストの体のことです そして神は教会をイスラエルさえよりも 高いところに置いたのです 私たちはキリストとともに 座らされているからです そしてイエス・キリストを 救い主と主として受け入れ このキリストの体である 教会の一部となる特権は ユダヤ人にもそれ以外にも すべての人に同様に与えられています そして今現在 神は何をしていますか? 神はすべての人が向き直って 主イエス・キリストに信頼を置き キリストの体の一部となることを 願っています あなたはもしかしたら 教会を低く見ているかもしれません だけど神は教会を最高なものとして 見ているのです 神は旧約聖書の時代 長い間ずっと待っていたのです こんな感じだったでしょう 「早く明かしたいな」 「早く明かしたい」 皆さんも素晴らしい秘密があると 伝えたくてうずうずしますよね 神もそんな感じだったはずです そして神は旧約聖書のところどころに ヒントを散りばめています 例えば創世記で一番長い章を 知っていますか? それは創世記24章です では創世記で一番長い章 24章には何が書かれているでしょう? 22章ではアブラハムが イサクを生贄として捧げようとします これは父によって生贄として 捧げられたイエスを表しています 神自身が私たちのために 罪のための生贄を捧げてくれたのです では24章は何でしょう? アブラハムが 名前を言及されていない召使いに 息子のイサクの花嫁を 探しに行かせます この召使いの名前が 言及されていないのは 彼が聖霊を表しているからです 聖霊はいつも自分ではなく 子なるイエスに スポットライトを当てます そして彼は リベカを見つけました このリベカは教会を表しています 教会はこのように奥義として 旧約聖書にも秘められていたのです いいですか? アーメン そしてリベカは イサクの花嫁となれる機会に対して 自身で 「はい」と言う必要がありました そしてリベカは実家を出て すべてを置いてラクダに乗って イサクのもとに向かいました それは長い道のりでした だからロウソクの火で 明かりを灯すような 野宿の夜が 何日か続いたはずです 彼女はこの時自分の女召使いを 従えていたと聖書にはあります またアブラハムの召使いも 一人では行動していなかったので それは大人数の一団だったはずです でもとにかくリベカは ロウソクで明かりを灯しながら 夜にアブラハムの召使いと こう話したことでしょう 「イサクさんは 実際どんな人ですか?」 「ハンサムな方ですか?」 「優しい方ですか?」 「でも何よりもまず 神様を愛していますか?」 それはまるでこの歌のようですね イエスの話を 聞かせてくださいな これが今 私たちが置かれている時です 私たち教会はリベカです 神は聖霊を贈りました そして聖霊は 自分にスポットライトを当てずに イエスにスポットライトを当てます 聖霊はイエスの素晴らしさと栄光を 明かすために地上にいます アーメン 私たちは花嫁であり 今は聖霊からイエスの素晴らしさを 聞いています そして私たちはイエスを見る前から 彼を愛しています リベカが イサクのもとに向かう旅路の中で すでに イサクに夢中になったようにです なぜこの24章が 一番長い章なのでしょう? それはそのプロセスが まだ続いているからです 聖霊は今花嫁を神のもとに 連れてきている最中です 皆さんが今聞いた内容は 神学校にわざわざ行ってでも 受け取るべき価値のある内容ですよ これが神の目的の全体像です だからあなたが何をするにしても それがキャリアにおいてでも ミニストリーにおいてでも それがこの神の目的に 繋がるようにしましょう 神はあらゆることを通して 私たちをこの愛の関係に 呼び寄せようとしているのです 人が存在するずっと前から 父は子を愛していました 子は父を愛していました そして聖霊も愛の霊として そこに満ちていました アーメン そして神は愛ゆえに 人を造りました 神は男性と女性を造り 彼らは夫と妻となりました ここにも 奥義が秘められています その奥義は エペソ人への手紙に明かされています それはイエスと花嫁という奥義です つまり神は アダムとエバを造った時すでに イエスと花嫁という構図が 頭にあったのです そしてイエスの花嫁とは 多くの器官からなるキリストの体です アーメン 「え、じゃあ イエスの私たちに対する愛は」 「夫の妻に対する愛みたい だってこと?」 いや違います 夫の妻に対する愛は イエスの私たちに対する 愛のようであるべきだということです イエスが原点です 父親の皆さん 神がなぜ あなたを父親にしたかわかりますか? 子どもができて父親になると 神の父の愛の素晴らしさが さらによくわかります お子さんが おむつにうんちをしてしまって それをあなたが 取り替えなければいけない時に その愛がわかります 奥さんがこう言います 「私がいつもやっているんだから 今日はあなたよ」 父親の皆さん そんな経験がありませんか? だけどそれをしている時に 気付けることがあります あなたが その子のおむつを変えている時 その子はただ天使のような笑顔で あなたを見ているだけです そしてあなたは気付きます 「この子は たった今うんちをして」 「私が犠牲になって それをきれいにしているんだけど」 「それでも この子を愛しちゃってるぞ」 「この子が汚いからって この子を捨てたりはしないぞ」 そしてあなたは 自分の子どもが美しい世界に生き 純粋で聖なる人生を歪まずに 素直に生きてほしいと願います そして小さな時のまま大きくならずに 鬱に苦しむこともなく 悪い世界に入っていかないことを 願います そして知恵深く 強く 神と人々の好意に包まれて 成長していってほしいと願います それが父の心ですよね 「おい なんで神は 私たちに子育てをさせるんだ」 神はあなたが 神があなたを愛しているとは どういうことなのかを わかるようにしてくれているのです そして私たち父親の 子どもに対する愛は 神の私たちに対する愛の ほんの一雫でしかありません 千倍しても十万倍しても 百万倍しても それは私たちに対する神の愛に 到底及びはしません アーメン 神を讃えます 愛が全てなんです イエスが彼らを極限まで 愛されたという点でしたね ああ まだ一節か だけど重要なのは 神が私たちに伝えようとしていることを 掘り出すことですよね アーメン では二節です "夕食の間のこと" ここで とても悲しい ネガティブで暗い影が このシーンに訪れます イスカリオテのユダの裏切りです "夕食の間のこと" "悪魔はすでにシモンの子 イスカリオテのユダの心に" "イエスを裏切ろう という思いを入れていた" 神がこの記述を 聖書に残したのは イエスはユダが裏切ることを知っていた ということを伝えるためです イエスは実際少し後で 「あなたがたのうちの一人が 私を裏切ります」と言いましたよね "「まことにまことに あなたがたに言います」" "「あなたがたのうちの一人が わたしを裏切ります」" イエスは もう知っていたのです でも そうでありながらも イエスは彼らを 極限まで愛したのです ユダも含めてです では次の3節です "イエスは父が万物を" "ご自分の手に 委ねてくださったこと" 父はどれだけを委ねましたか? 万物をです そしてどこにですか? イエスの手にです "イエスは父が万物を" "ご自分の手に 委ねてくださったこと" "またご自分が神から出て" "神に帰ろうとしていることを 知っておられた" "イエスは 夕食の席から立ち上がって" "上着を脱ぎ手ぬぐいを取って 腰にまとわれた" "それからたらいに水を入れて 弟子たちの足を洗い" "腰にまとっていた 手ぬぐいでふき始められた" 今この箇所を 考察してみましょう 聖書はイエスが ただ立ち上がったとは書いていません この時はきっと 皆疲れていたことでしょう そしておそらく弟子たちは 誰かが足を洗ってくれるのを 期待していました ちなみに当時客人の足を洗うのは その家の奴隷の仕事でした しかもここにはイエスが ただ立ち上がったとは書かれていません たった今読んだ箇所を 少し巻き戻してみると こうあります "イエスは父が万物を" "ご自分の手に委ねてくださった ことを…知っておられた" イエスは神が自分の手に 万物を委ねたことを知りつつ その手で弟子たちの 埃まみれの足を包んだのです あらゆる力を持つその手が なぜ? それはその手に 全ての力を持っていた方は その心に 全ての愛を持っていたからです イエスは自分の手に委ねられた 力を持ってすれば 裏切り者を滅ぼすことだって できました だけどすべての力を持つ その手が選んだのは 愛である神が喜びとして選んだのは 仕えることでした だから家族を愛しているなら 彼らに仕えることは 苦ではないのです 大切な人たちを愛しているから 彼らに仕えるのは 苦ではないのです このように仕えることは 愛から生まれます 私たちは愛するとき 仕えたくて仕方がないのです たまに妻のウェンディーに 言われます 「それはジャスティンに やらせてちょうだい」 ちなみに今ジャスティンは もう10歳なので 彼女はこう言います 「自分でやらせるようにして ちょうだい」 だけどただ彼のために やってあげたいときがあるのです なんとか仕えさせて もらいたいのです だから早く大きくなりすぎて ほしくない わかりますか? もちろんやらせて学ばさせるのは 重要です だからあえてやってあげずに 自分でやらせることもあります だけど時には ただやってあげます 上着を着せてやるときもあります 彼はもちろん それを自分でできます でもそれをするのは これを知っているから 彼らはすぐに 大きくなっていってしまう でしょ? アーメン 愛は 仕えることと与えることを 最上の喜びとします だからすべての力を持っていた イエスにとっての最上の喜びは 仕えることだったのです 高ぶった人というのは 仕えることも与えることもできません 問題は その人がケチなのではありません 人が高ぶっているとき それはその人の自分に対する不安を 表しています でもイエスは 自分の深いところで 穏やかに 自分の手に万物が委ねられていて 自分が神から出て神に帰ろうと していることを知っていました イエスはそのすべての真理を 静かに深く知りつつ 跪いて 弟子たちの足を洗いました 自分が誰であるのかを 知っている人だけが 本当の意味で謙遜になれます 謙遜になれない人は 自分に対する不安でいっぱいなのです 彼らは実際は自信がないけれど それを隠そうとして高ぶるのです これぐらいにしておきます 「プリンス牧師 先に進んでください」 「もうその話は頼むから やめてくださいよ」 うんわかった 先に進みましょう "イエスは 夕食の席から立ち上がって" "上着を脱ぎ" "手ぬぐいを取って 腰にまとわれた" この時弟子たちは互いに こう言い合っていたかもしれません 「ここには奴隷がいないけど 誰が足を洗うのかな」 「今回は ヨハネの番なんじゃない?」 「いやペテロだったかな」 するとペテロは言います 「いやいや 俺はイエスの隣に座ってるし」 ヨハネも言います 「いやいや僕はイエスの胸に 寄りかかるので忙しいんだよ」 いいですか? そしてユダはこう言う 「私はお金を数えるので 忙しいんだ」 ではトマスはどうでしょう トマスはこう言います 「今回が私の番とは疑わしいな」 これは冗談ですが 言いたいことはわかりますね そんな中 驚愕的なことが起こりました イエスが自分に全てが委ねられている という真理を知りつつ 立ち上がって たらいに水を入れて "弟子たちの足を洗い" "腰にまとっていた 手ぬぐいでふき始められた" そして6節 "こうしてイエスが "シモン・ペテロのところに" "来られると ペテロはイエスに言った" "「主よ、あなたが私の足を 洗ってくださるのですか?」" "イエスは 彼に答えられた" "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" "「後で 分かるようになります」" ここで一回 ストップ ここでイエスがしたことはよく ただ最大限のへりくだりを示すもの として理解されています だけどこれは イエスの十字架に向かう前における 上階の広間での最後の行動です だからこの行動には 何かしらの象徴が秘められています もし私たちがこのシーンを よく教えられているように ただのへりくだりのレッスンとして 受け取ってしまうなら そこには大きな見落としがあります ペテロに対するイエスの答えに 注目してください ペテロが「あなたが 私の足を洗うんですか?」と言うと イエスは こう言いました "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" ペテロはこの時 イエスがその瞬間に へりくだっているということが 理解できていなかったと 思いますか? そこにいた十二弟子 皆にとっても イエスがへりくだりの大切さを 教えていることは 明らかだったはずです そんなことは一時間経たずとも 理解できたはずです だけどイエスは こう言いました "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" "「後で 分かるようになります」" "「後で 分かるようになります」" "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" "「後で 分かるようになります」" つまりこの行動は何かを 象徴していたということです もしこれがただのへりくだりの レッスンであったならば 彼らはそれをその時の今 わかっていたはずです そうですよね だけどイエスは言いました "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" "「後で分かるようになります」" この"後で"とは 聖霊が注がれて 私たちの中に宿った後のことです そうしたら 私たちはわかるようになります ここまでよろしいでしょうか? ペテロは 私たちが言いたいけど なかなか言えないようなことを 言っちゃってくれるやつですよね あなたはそれを言うほど 愚かではないから ペテロをつっついて 代わりに言ってもらう わかりますよね? 何か質問があると クラスメイトにこう言って 代わりに聞いてもらおうとする 「ちょっと手をあげて これを聞いてくれない?」 「マヌケに見られたくないんだよ」 「きっとこれは マヌケな質問だからさ」 とにかくそうやって 誰かに聞いてもらおうとする ペテロは それにぴったりなのです 彼は肉をよく表しています だけど彼の愛情もリアルで 彼は心から イエスを愛していました だけどペテロは肉によって イエスを愛そうとすることが どういうことなのかを 表していました 見てください ペテロは 「あなたが私の足を洗うのですか?」 と言って 「わたしがしていることは 今は君にはわからない」 と言われます そうしたらそれを 潔く認めると思いますよね でもペテロはこう答えます "「決して私の足を 洗わないでください」" 「先生、私の足を決して 洗わないでください」 これには頷けます これはペテロがイエスに リアルな愛情を抱いていたからです ペテロは確かに イエスを愛していました そうですよね でもそれは肉によってでした 最低でも私はそうですが きっと私たちの多くが 神に何かをするように頼まれたのなら 自分の愛を示すために それを頑張ると思います 多くのことをして 愛を示そうとするのが 私たちの肉の性質だからです だけど神が「座りなさい 君を祝福したいから」 「君にこれを 受け取ってほしいから」 「君をこれで祝福したいから」 「君にあれを与えたいから」と言うと 私は葛藤を感じます そして 「いやいやいや神様」 「決してそんなことは しないでください」と言ってしまいます だけどあなたが 「それをしないでください」 と言っている相手は誰ですか? 愛を傷つけるのは 何だと思いますか? それは何かを与えようとして 受け取ってもらえない時です 私たちは 愛において完璧ではないので これを完全に理解はできません 私たちは愛に満ちていない時が よくあります 「くれないならやらんぞ」 「取らないんだから 取るなよ」 私たちはそのようになってしまう 時がよくあります だけど完璧な愛を傷つけるのは 何だと思いますか? お母さん方には分かる人が いるでしょう 愛を傷つけるのは あなたが愛する人が あなたの贈り物を拒む時です だからたまには 旦那さんがあなたに 何かを教えようとする時 「いや分かっているからいいよ」 とは言わずに 教えさせてあげてください 彼があなたに 何かを伝えようとしていたら 「もう分かっているからいいわ」 ではなくて 分かっていても 彼に伝えさせてあげてください それが彼の喜びとなります また奥さんがあなたに 何かをしてくれようとしているなら 「いいからいいから大丈夫だよ」 とは言わずに それが彼女の喜びになるならば やらせてあげてください 「君の誕生日に」 「君が喜ぶような 何か特別なものを作りたいんだ」 「そんなの必要ないわよ」 「どっか外に 食べに行きましょう」 いやいや必要ありなさい 愛を受け取れるように なってください なぜか私たちには 愛を拒む傾向があります それは肉の性質なのです 私もその傾向で苦しんでいます いいですか? この教会が私を祝福したい でも私は「ノー」と言う ですよね? ですよね? でも私とあなたは今 違うことを考えていると思います 神が語ってくれたことに対しては 私は従わなければいけません だけど 「いやいやいや〜いや〜」 となってしまうのは 肉の性質です では 肉の性質その二 "「イエスは答えられた」" "「わたしが あなたを洗わなければ」" "「あなたは わたしと関係ないことになります」" それに肉がどう答えるか 見てください "シモン・ペテロは言った" "「主よ、足だけでなく 手も頭も洗ってください」" 「おーい先生 全部やっちまってくれよ」 「全部やっちまってくれよ」 極端ですね 最初は控えめです 「いやだめだよ だめだめ」 「そんなの申し訳なくて やめてください」 「ほらケーキどうぞ」 「いいえ結構です」 「結構です」 私のシンガポール人の知人が 初めてアメリカに行った時のことです そこでアメリカ人が彼に 「ケーキをどうぞ」と言いました ちなみにそのアメリカ人は 私たちシンガポール人の 4、5回勧められて やっと受け取るという習性を 知りませんでした 私たちシンガポール人の 中国的な思考では ケーキを勧められたら アメリカ人のように初めから 「ありがとう、いただきます」 とは言えないのです 私たちはまず 「いや大丈夫です」 「大丈夫」と言います 私たちはもう そのようにプログラムされています まずは断らなければいけない だけど心では 「あのケーキうまそう」 と思ってる そしてこう言われる 「いや遠慮しないでどうぞ 美味しいんだから」 するとここでは 「わかってるわい」と叫びながら 「いやいやいやいや 大丈夫ですってば」 「大丈夫だって」と言う 「本当ですか? 本当にいらないの?」 「大丈夫です」 3回目 (よーし4回目が来るぞ) (4回目が来たら受け取るぞ) (もう一回勧めて) 「そうか、いらないのか」 大丈夫って言ってたじゃん 私たちのこの文化は あまり得ではないので ただ「ありがとう」と言って 受け取れるように なっていきましょう アーメン とにかく イエスはこう言いました "「わたしが あなたを洗わなければ」" "「あなたはわたしと 関係ないことになります」" するとペテロは 極端にこう言います "「主よ、足だけでなく 手も頭も洗ってください」" 今ここで 聞いてもらいたいことがあります このシーンについて 考えてもらいたいことがあります ここまで読んできた箇所は 私たちに イエスがどのような背景で 弟子たちの足を洗ったのかを 物語っています それは "イエスがこの世を去って" "父のみもとに行くご自分の時が 来たことを知って"いて "父が万物をご自分の手に 委ねてくださったこと" "またご自分が神から出て" "神に帰ろうとしていることを 知って"いたという背景です それを知りつつ イエスは夕食の席から 立ち上がりました それは何を意味するでしょう? それはこの時点で イエスが 十字架の後のことについてを 示そうとしている ということです この時イエスは夕食の席から 立ち上がりました それはつまり彼の死をする聖餐から 立ち上がったということです そして死を意味する聖餐から 立ち上がったイエスは 第三の天を意味する 上階の広間において 今現在 父の右の座で 彼が私たちのためにしていることを そこで示したのです イエスの次の言葉を 覚えていますか? "人の子は 仕えられるためではなく" "仕えるために来た" イエスは次のようにさえも 言いました "帰ってきた主人に" "目を覚ましているのを見てもらえる しもべたちは幸いです" "まことにあなたがたに言います" "主人のほうが帯を締め そのしもべたちを食卓に着かせ" "そばに来て給仕してくれます" これは言い換えるなら イエスは今でも仕える者で あり続けているということです イエスを仕える者として描いた福音書は マルコの福音書です それは過ちを犯した仕える者に よって書かれた 過ちを犯さなかった仕える者に ついての書です イエスはあなたに仕える者と なりたいのです もちろんイエスが主です 彼こそが私たちの主人です ハレルヤ だけどイエスは あなたに仕えたいのです 次のようには考えないでください 「ああイエスは もう死から蘇った」 「そして今はもう素晴らしい 栄光を受けた肉体で天国にいる」 「だからもう このイエスが地上にいた時のように」 「私のことを大切にしてくれる なんて想像できないよ」 だけどイエスは 彼らを最後まで 極限まで愛されたと 書かれていましたよね これは天国にいるイエスが 今でもあなたを愛している ということです そして弟子たちの足を洗う というイエスのこの行為は 上階の広間で行われました またイエスはこの行為を 自分が父のみもとに帰ると知った上で 行いました それはつまりイエスが今現在 父の右の座で これを行っているということです イエスは今大祭司として 何をしていると思いますか? 私たちの大祭司として今 父の右の座にいるイエスは 今も私たちの足を洗っているのです 彼は今そこで あなたの足を洗っています あなたはその洗いに 自分自身を晒していますか? 聖書はあなたの家で 閉じられたままの本に なってしまっていませんか? あなたが聖書のメッセージを 聞くために使っていた エアーポッズやイヤフォンは もう 聖書のメッセージを聞くという 目的のためには 使われなくなって しまっていませんか? ここで示されている「洗い」とは 神の言葉による水の洗いのことです いいですか? そうなんですよ このシーンで イエスがたらいに入れた水は 神の言葉を象徴しています イエスは今日 あなたの足をどう洗いますか? 神の言葉によってです エペソ5章には こう書かれています "夫たちよ キリストが教会を愛し…たように" "あなたがたも 妻を愛しなさい" 聞きましたか? 夫と妻の関係は イエスと教会の関係 のようなものなのです "夫たちよ キリストが教会を愛し" "教会のために ご自分を献げられたように" "あなたがたも 妻を愛しなさい" ここには妻が夫のために 自分を捧げるとはありません 夫が妻のために自分を捧げると あります 夫の皆さん 奥さんのために犠牲を厭わないように なっていきましょう 彼女が それに気付いていない時でも 彼女のために自分を捧げましょう いいですか? アーメン 私も妻のために自分を捧げて 彼女のためにしていることが ありますが それを彼女には 知ってもらいたくありません 今ここで公にしてしまったので きっと後で彼女から 「それは何なの?」と 聞かれてしまうことでしょう 皆さんだって することがあるでしょう 大きいフライドチキンと 小さいフライドチキンがあったら さりげなく奥さんに 大きい方を譲りますよね いいえ? まず小さなことから始めましょう アーメン ただ愛せるということに 喜びと楽しみを見出してください 応答があった時だけに 喜びを見出すのではなくて 愛していること自体に 喜びと楽しみを見つけてください 応答がなくても 愛すること自体に 夢中になるのです 子どもたちへの愛にも 同じことが言えます 愛すること自体に 喜びを見出しましょう そしてそのご褒美は イエスに期待すればよいのです イエスは何も見逃しません イエスは花嫁である 教会のために 十字架で 自分自身を捧げました "キリストが そうされたのは" "みことばにより 水の洗いをもって" "教会をきよめて 聖なるものとするためであり" "ご自分でしみやしわや そのようなものが何一つない" "聖なるもの" "傷のないものとなった 栄光の教会を" "ご自分の前に 立たせるためです" この「聖なる」とは 「完全で特別で」 「取り分けられた」という意味ですが 女性なら誰もが シミやシワや傷が 何一つない聖なるものと なりたいですよね? なりたいですよね? 嘘つきのための悔い改めの時を 持つ必要がありそうですね 女性なら誰もが顔からシミやシワが 消え去って欲しいですよね 誰がこの言葉を 聖書に置きましたか? 神です 今その願望が聖書的であるということが 分かりましたね 私たち人が本能的に 気にかけることというのは 神が備えてくれた感覚だと 思います 女性は美しくありたい それは虚しい願望では ありません でも極端になってはいけませんよ 旦那さんが休まずに 毎日働いて あなたが王室級の 高級な美容品を使えるようにする 私がここで言っているのは そういうことではありません 私がここで言っているのは 綺麗でありたくて良い見た目で ありたいという自然な願いは 神が女性に備えてくれた本能だ ということです それは花嫁が 教会を象徴しているからです そしてイエスは 教会をどのように洗いますか? "みことばにより 水の洗いをもって"です "夫たちよ キリストが教会を愛し" "教会のために ご自分を献げられたように" "あなたがたも 妻を愛しなさい" "キリストがそうされたのは みことばにより" "水の洗いをもって" "教会をきよめて 聖なるものとするためであり" ここで一回ストップして よく聞く教えについて 言及したいと思います それは次のような教えです 「イエスは御言葉によって 私たちを洗っている」 「でも私たちは御言葉を しっかり受け取っていないから」 「今日の教会はひどい状態だ」 「教会の最近のこんな状態じゃ イエスはすぐには戻ってこないだろう」 でもそれはこの世的な目と この世的な考えによる判断です 「最近の教会の状態を見たか?」 「イエスが降りてくる途中で 今の教会を見たら」 「結婚式を延期するだろうな」 「今の教会は シミやシワが何一つない状態とは」 「ほど遠いのだから」 このような教えの問題は この聖書箇所のギリシャ語の時制を 取り違えていることです ここには 次のように書かれていますね "キリストが そうされたのは" "みことばにより 水の洗いをもって" "教会をきよめて 聖なるものとするため" これはイエスが 将来することではありません この部分の時制は アオリストであり 過去形なのです そしてさらに これを見てください "栄光の教会を ご自分の前に立たせるためです" しかし先ほどのような教えを語る人は 次のように言うでしょう 「シミ一つない教会をだ」 「神はシミやシワが何一つない教会を 立ち上げておられる」 この人が言っているのは 人の目においてでしょうか? 神の目においてでしょうか? これは明らかに 人の目においてです そうですね? 「いつかイエスは栄光の教会を ご自分の前に立たせる」 でも皆さん 原語のギリシャ語を見てください この"ご自分の前に立たせるため" の時制は現在能動分詞です それが意味するのは「今現在」 イエスがあなたをシミやシワや そのようなものが何一つない 聖なるものとしてご自分の前に 立たせているということです イエスは今 あなたを美しい者として 見ているのです 「でもプリンス牧師 私はシミだらけだよ」 イエスはあなたのシミを見ないのです シミだらけさん シミだらけさんじゃなくて 神の子どもだった 神があなたどう見ているのかを 知るには 雅歌を読んでください そこには花婿のイエスが 花嫁の教会をどう見ているかが 次のように描かれています "ああ あなたは美しい" "わが愛する者よ" BGMをお願いしますよ この箇所には 美しいBGMがぴったりなはずです "ああ あなたは美しい" "わが愛する者よ" "ああ あなたは美しい" "あなたの目は ベールの向こうの鳩" 皆さんは鳩の目を 見たことがありますか? 鳩の目はうるうるしていて とても綺麗です 鷹やハゲワシの目では ないですよ これはあなたの旦那さんの言葉では ありませんから いや冗談ですよ 本気では言っていません とにかく イエスから見て 教会の目は ベールの向こうの鳩なのです "髪はギルアデの山を下って来る やぎの群れのようだ" イスラエルの ヤギの毛はとても黒く 艶があって 輝いています この花嫁の髪の毛は そのようなのです 彼女の髪の毛は 黒く光沢を持って 輝いています イエスは 教会をそう見ているのです "髪はギルアデの山を下って来る やぎの群れのようだ" ギルアデの山は 聖書においては 治療に用いられるギルアデの香油で 知られています だから彼女の髪の毛は 健康でもあるのです イエスは教会を見て こう言っています 「あなたは美しい」 それどころか「ああ」というため息まで 漏らしています そしてこれを読み進めると 花婿はこう言います 「あなたには何の汚れもない」 今一つ質問させてください もしこれが 目に見える領域でのことならば イエスがこの発言を偽りなく イスラエルや教会にかけれるような時が あったでしょうか? 目に見える領域においてですよ ないですよね これまで生きてきた人生で 「私には何の汚れもない」 と言えるような人は存在しません だけど聖書にはコロサイ人への手紙に こう書かれています 神はあなたがたを神の目に "聖なる者" "傷のない者 責められるところのない者として" "御前に立たせる" 旧約聖書には ある魔術師のような人が出てきます 彼は本物の預言者では なかったので 彼をどう呼んだらよいかは 分かりませんが ある時聖霊が彼に イスラエルについての 最も美しい預言の一つを 語らせたことがありました その彼の名はバラムです このバラムの呪いには 効き目があるとの評判だったので 彼は イスラエルの民を呪うようにと バラク王に雇われていました バラク王はバラムに 「奴らを呪ってくれ」と言います しかしバラムは イスラエルを呪おうとする時 こう言います "ヤコブの中に不法は見出されず" その時バラク王は きっとこんな感じだったはずです だけどバラムはこう続けます "イスラエルの中に 邪悪さは見られない" えー ではこの"ヤコブの中に 不法は見出されず"とは どういうことでしょうか? え? イスラエルには不法がない ということでしょうか? いやそうは書かれていません バラムは 「イスラエルには不法はない」とは 言いませんでした 神がそれを彼らの中に見出さない と言ったのです これは神が聖なる方であり 義なる方であるからです 神の神聖さと義が見たのは 私たちの全人生の罪全てを 背負っている イエスだったのです そしてその時神は 御子であるイエスを裁き罰しました そして私たち全ての罪に 注がれるべきだった 神の怒りと責めがそれを背負っている イエスに注がれたのです アーメン この時に神はあなたの罪を 十字架に架けられた 御子イエスの肉体の中に 見たのです だから神は今日 あなたを罪なき者として見ています 聞き間違えないでください 私は「私たちの中に罪はない」 とは言っていません 私が言っているのは 神が私たちを見るときに そこには罪がないということです 牛やヤギの血によって それが イスラエルに起こっていたならば イエスの血によって洗われた私たちは どれほどでしょう どうか自分がキリストにあって 神の義であることを知りながら 生きてください 失敗を犯してしまったときもです あなたの耳にはどんな責めたてる言葉が 響いていますか? 「あれ言い方 おかしかったんじゃない?」 「あ〜 あそこで怒っちゃったよね」 もしこのように 自分の罪や失敗ばかり意識していたら 一日中へこみ続けていることに なるでしょう だけど代わりに こう言ったらどうでしょう 「神様ありがとう」 「私はキリストにあって 神の義なんだ」 それによってあなたは高く高く 上がっていけるでしょう そして忘れないでください この義とはあなたの義ではなく キリストにあっての義です アーメン ああまだまだ このメッセージは始まったばかりなのに もうすぐ皆さんを 帰さなければいけません では今このヨハネ13章の箇所に 戻りましょう "イエスは答えられた" "「わたしがあなたを 洗わなければ」" "「あなたには わたしとの分はありません」" 今日多くの人が このイエスの言葉を勘違いしています でもそれに触れる前にまず 私たちはどうやったら イエスに足を洗ってもらえますか? 私は聖書を読む前に いつもではないですが よくこう言います 「イエス今私の足を あなたの手の中に置きます」 これをするには 真の謙遜さが必要です 普通は 「そんなことさせられないよ」 「イエスは神なんだぞ」 となってしまうからです だけどイエスは 私たちの足を洗いたがっています そして先ほど私が言った 勘違いというのは このイエスの言葉が 救いに関することだということです しかしこれは 救いの洗いのことではありません イエスは 「わたしがあなたを洗わなければ」 「あなたは わたしの中にいないことになる」 とは言わなかったからです イエスは「あなたには わたしとの分はない」と言ったのです イエスが 彼らの足を洗わないことは 彼らがイエスの中にいないことに なるのではなく 彼らにはイエスとの分がなくなる ということなのです もし誰かと良い関係を 持ちたいならば あなたはその人と一緒にいて その人と共に動き 交わる必要があります アーメン それは「くびきを共にする」 というようなものです そうですよね ここでイエスが言っていたのは そのことです イエスは「あなたは わたしの中にいないことになります」 とは言いませんでした もしイエスが 「わたしの中にいないことになる」 と言ったのならば… この洗いは 救いの洗いということになります でもこの足の洗いは もう救われた人たちに 向けられたものだったのです 読み進めれば さらにそのことが分かります "シモン・ペテロは言った" "「主よ足だけでなく 手も頭も洗ってください」" "イエスは彼に言われた" "「水浴した者は 足以外は洗う必要がありません」" "「全身がきよいのです」" "「あなたがたは きよいのですが」" "「皆が きよいわけではありません」" "イエスはご自分を 裏切る者を知っておられた" "それで「皆がきよいわけではない」 と言われたのである" 今はこの最後の部分は 抜きにして考えましょう それはユダについてのこと だったからです "「水浴した者は 足以外は洗う必要がありません」" この水浴が救いのことです この水浴は ただ一回きりのことで 繰り返されることは ありません あなたがイエス・キリストを信じ 受け入れて 新しく造り直される時 あなたはきよく洗われました それが 再生と刷新の洗いであり この水浴は 繰り返される必要はないのです あなたは 完全にきよくされました 皆さん よく聞いてください この節における "水浴"と"足を洗う"に 用いられている ギリシャ語は別です だけど訳によっては 同じ言葉で訳されているので それが混乱を生んでいます しかし実際は「水浴」と訳された言葉は louoです そして 「足以外を洗う必要がありません」の 「洗う」はniptoです louoとは全身に水を浴びて 洗われることです それは救いですね そしてこれは 繰り返される必要はありません だけど足を洗うことは 別です 当時のイスラエルでは 全身を丹念に洗った後も 歩き回ることで 足にまた土がついてしまいました その場合全身を洗い直す必要は ありませんね 水を汲んで足だけを洗います それがここで 描写されていることです そしてここでイエスが 「水浴した者は… 全身がきよいのです」" と言っていることに 目を留めてください あなたは自分が 完全にきよいと知っていましたか? イエスが あなたは完全にきよいと言ったのです 水浴した者は 完全にきよいのです そしてその人が 洗い続けなければいけないのは どの部分だけですか? niptoという言葉は 手や足や顔などの小さな部分を 洗うことに使います あなたが洗わなければいけないのは 足だけなのです そしてそれは毎日の日課です 地上での人生を生きる中で 日常当たり前のように起こることを 通してや 毎日の家事を通してや 仕事における責任を通してや テレビやソーシャルメディアなどで 見ることを通して 私たちの人生には言うなれば 塵が積もっていきます そしてその塵が積もりすぎると それは罪にもなりえます さらに塵は 悪魔が食べるものです 神は悪魔にエデンの園で こう言いました 「お前は一生 塵を食べることになる」 いいですか? そしてあなたが その塵から洗われる方法は 御言葉による水の洗いを もってです あなたの足は イエスが迎えに来るのを待っている間の あなたの日常の歩みを 象徴しています アーメン そのあなたの日常の歩みは 御言葉による水の洗いをもって 洗われるのです 素晴らしいですね 旧約聖書には 洗盤と呼ばれるものが出てきます これが その洗盤の想像図です 祭司たちは この洗盤で手を洗いました それが実際どんな見た目であったかは 定かではありません だけど青銅でできていたことは 確かです 祭司たちは洗盤で手を洗わずに 会見の天幕に入るなら 死ぬことになっていました ここにこう書いてある通りです "主はまた モーセに告げられた" "「洗いのために 洗盤とその台を青銅で作り」" "「それを会見の天幕と 祭壇の間に置き」" "「その中に水を入れよ」" "「アロンとその子らは そこで手と足を洗う」" ここでは大祭司のアロンは イエスを象徴していて その子らは 私たちを象徴しています では21節 "「その手 その足を洗う」" "「彼らが死ぬことの ないようにするためである」" "「これは彼と その子孫にとって」" "「代々にわたる 永遠の掟である」" もちろんここに書かれていることは どれも何かを象徴しています ところで私が今 旧約聖書を引用したことに 気付いてくれましたか? よかった 確認しておいただけですよ 「プリンスはパウロの手紙からしか メッセージをしない」 と言う人たちがいるからです そんなわけはなく 聖書全体からのメッセージですよ とにかく これを読んでください "「その手 その足を洗う」" "「彼らが死ぬことの ないようにするためである」" 神はなぜここに "彼らが死ぬことの ないようにするためである" という言葉を 置いたのでしょうか? それは 御言葉による水の洗いが いのちを与えるものでもあるからだと 私は思います 教会で神の言葉を 聞いている人たちも PodcastやYouTubeで 私や誰かが神の言葉を語るのを 聞いている人たちも それがどんな形であっても 誰を通してでも あなたは聖書的で キリスト中心のメッセージを 聞くようにしてください いいですね? あなたが 自分で聖書を学んでいる時も どうかこの洗いに 自分を晒してください それはもちろん あなたが霊的にキリストと 足並みを揃えるのに欠かせません そしてそれは あなたが聖霊によって歩み イエスとの分を得られるように してくれます だけど私はそれだけでなく 彼らが死ぬことのないようにと ここに書かれているのは それがいのちを与えるものでも あるからだと思います それを証明するかのように 箴言4章22節は神の言葉について こう述べています "それらは見出す者にとっていのちとなり 全身の癒やしとなるからだ" 神の言葉に時間を費やすことは 健康につながるのです 祈りもなく ただしなければいけない という理由で聖書を開いていても それは起こりません しかし イエスがたらいに水を汲んで あなたに神の言葉を振りかけようと しているのを知った上で 聖書を開くなら あなたはイエスの ヨハネ15章3節の言葉を経験します イエスは上階の広間で この言葉を語りました "あなたがたはわたしが あなたがたに話したことばによって" "すでにきよいのです" アーメン 聖書には次のように 書かれていますね "夫たちよ キリストが教会を愛し" "教会のために ご自分を献げられたように" "あなたがたも 妻を愛しなさい" 今その箇所でこのメッセージを 締めくくっていきます "キリストが そうされたのは…" "栄光の教会を ご自分の前に立たせるためです" この「ご自分の前に立たせるため」 という言葉に注目してください それは教会が 牧師や司教やローマ法王の前に 立たされるためではないのです それはイエスが教会を 自分の前に立たせるためなのです そして「わたしはあなたを 栄光の教会として」 「わたしの前に立たせる」と言えるのは イエスだけが持つ特権です そしてこれは現在能動分詞です つまり今現在もイエスは あなたをそのように見ているのです イエスは あなたをどう見ていますか? 栄光の教会です でもそれだけではありません シミもないものとしてです またシワもないものとしてです シワは何の象徴ですか? 老いです これはもちろん霊的な話です だけど神の事柄を霊的なものだけに 縛るのはやめましょう 御言葉による水の洗いは あなたを若く保つのかもしれません "しみやしわや そのようなものが何一つない" 病気はどう? "そのようなものが何一つない" です 鬱はどう? "そのようなものが何一つない" です "聖なるもの 傷のないものとなった" そのような女性がいたら 「ワオ!」ですよね アーメン 今神がここで私たちに語ろうと していることを見ていきましょう その一 あなたの奥さんを他の誰でもなく あなた自身の前にシミ一つないもの として立たせてください つまり奥さんを目の前にするとき 欠点を見るのではなく 素晴らしい点を見るのです 聞いてください 欠点ではなく 素晴らしい点を見つけてください ではその二 奥さんを年寄りとして 扱ってはいけません 「あ〜君も年取ったよな」 それをやめましょう ここには夫と妻に対する知恵も 詰まっています あなたはどうやって 神の言葉で奥さんを洗いますか? あなたが話す言葉は 彼女に 「あ〜自分は年寄りだ」とか 「自分はろくでもない」と 感じさせてしまっていませんか? だとしたらそれを変えて 彼女があなたの目には 栄光に満ちているということを 感じられるような言葉を かけてあげてください アーメン 私たちのうち誰もすでに ゴールにたどり着いた人はいません だけど私たちが見ているのは イエスの栄光です そして私たちはイエスを見る中で イエスのようになっていくのです 旦那さんたち あなたたちの方が強いのです あなたたちの方が偉大なのです そして奥さんを シミ一つないものとして見ることは あなたにとっての栄誉です 聖書には 「その人の栄誉は」 「そむきを見過ごすことにある」 と書かれています あなたはそむきを見過ごすたびに 栄誉に満ちていくのです 欠点を見つけるのではなく 素晴らしい点を見つけましょう それを今週の上階の広間からの 宿題としたいと思います でももし失敗したらどうしますか? 「私はキリストにあって神の義だ」 と言って挑戦し続けましょう 彼女が何かをして 「くそ、あれが腹立つんだよな」 と感じることがあるかもしれません その時も「私はキリストにあって 神の義だ」と言って 彼女について 何か称賛すべき点を探しましょう 「だけど私の友人の奥さんは こんなこともしてくれるんだよ」 だけどあなたの友人の奥さんは あなたの奥さんがする あんなことはしてくれません その奥さんがすることは あの奥さんはしないし あの奥さんがすることは この奥さんはしない 誰にでも強みがあるんだから それを見つけましょうよ 彼女が 自分で自分をではなく あなたが彼女を あなたの前に立たせるのです 「だから君はシミ一つも傷一つも あってはいけないよ」 「君は神聖でなければいけないよ」 というのは間違ったアプローチです だけど残念なことに 教会はそのアプローチを 自分に課してしまっています しかしイエスは律法によって 私たちを洗うのではないのです それに気が付きましたか? 上階の広間で イエスはこう言いました 「あなたがたはわたしが あなたがたに話した言葉によって」 「すでにきよいのです」 今締めくくりますからね これがファイナルの 締めくくりです とにかくここでイエスが 彼らに話した言葉とは 「殺してはいけない」 「偽りの証言をしてはいけない」 ではありませんでした それが私たちをきよくする言葉では ではないのです 上階の広間で イエスは何を語りましたか? 「わたしはぶどうの木です」 イエスが語ったのは 彼が誰であるのかでした そしてそのすぐ後で イエスは「あなたがたはわたしが 話した言葉によって」 「すでにきよいのです」と 言いました きよいのはキリストの中における アイデンティティです だから皆さんも すでにきよいのです 私は今まさに 皆さんの足を洗ったのです これは伝えておかなければ いけません これはとても重要です たった今それを思い出したので 素早く伝えたいと思います イエスは 彼らに言いました 「わたしがあなたがたに 何をしたのか分かりますか?」 「わたしがあなたがたに 何をしたのか分かりますか?」 "「あなたがたは わたしを『先生』とか」" "「『主』とか呼んでいます」" "「そう言うのは正しいことです」" "「そのとおりなのですから」" "「主であり 師であるこのわたしが」" "「あなたがたの 足を洗ったのであれば」" "「あなたがたもまた互いに 足を洗い合わなければなりません」" 私はよく意図的に真理を伝えて その真理によって 誰かをリフレッシュさせる機会を 探し求めています パウロはオネシポロについて 「彼はたびたび私を元気づけ」 と述べ ピレモンについては 「あなたは多くの聖徒たちを 元気付けた」と述べました これは水の洗いのことです 足を洗ってあげられる人を 探しましょう ところでイエスがここで 言葉の順番を 変えていることに 気が付きましたか? "「あなたがたは わたしを『先生』とか」" "「『主』とか呼んでいます」" でも次は "「主であり師であるこのわたしが」" 順番が変わっていますね? 多くの人がイエスを師として ついて行った後で イエスを 主としたがっています でもイエスはこう言っています 「わたしを 主として受け入れなさい」 「そうすればあなたにはできます」 いいですか? これはおまけでした では15節に進みます "わたしが あなたがたにしたとおりに" "あなたがたもするようにと" "あなたがたに 模範を示したのです" 次に17節 "これらのことが 分かっているなら" "そして それを行うなら" "あなたがたは幸いです" makarios 幸い "あなたがたは幸いです" あなたがキリストにあっての姉妹の 足を洗うたびに 神の言葉によって その人を元気付けるたびに あなたが幸いになるのです あなたがキリストにあっての兄弟の 足を洗うたびに 奥さんの足を洗うたびに 家族の足を洗うたびに 幸いになるのは誰ですか? あなたです 「あなたがたは…makarios 幸いです」 だから私たちが足を洗い合うという この点も忘れないで欲しいのです これは「イエスが私たちを愛したように 互いを愛し合う」の実践です 足を洗ってあげられる人を 見つけましょう 最近ではLINEもあるので LINEメッセージでさえ この水の洗いは起こりえます 誰かのことが思い起こされたら その人に電話して 神の言葉で励ましてあげてもいいですね それがその人の足を洗う ということです 今日イエスは あなたを通して洗うのです 今日も皆さんにメッセージを語れて 私は幸いでした 神を讃えます イエスありがとう 最高です 私は今日教会に来て 本当に良かったよ 「プリンス牧師いいぞいいぞ」 ハレルヤ スクリーンに映っている後ろ姿も かっこいいじゃないか ハレルヤ 神を讃えます アーメン 今日来て 本当に良かったです 今日来なかったら これを聞けなかったから 今日来なかったら これを聞けなかった とにかく神を讃えます それでは皆さん目を閉じて 頭を垂れてください 皆さん 私は信じています 今この瞬間に私ではなくて 聖霊が私たちの主イエス・キリストの 素晴らしさを あなたに垣間見せてくれたと キリストが 私たちの全ての罪のために死に その死から蘇らされ 墓と死と地獄に打ち勝ち 今父の右の座にいて 今でもあなたに 仕え続けているということを 聖霊が今あなたに 示してくれていますように もしイエスを あなた自身の救い主と 主として受け入れたいなら 今この祈りを一緒に祈ってください 「天のお父さん」 「天のお父さん」 「あなたの御子である 主イエス・キリストという」 「贈り物をありがとう」 「キリストは私の罪のために 十字架で死にました」 「そして あなたが私を義と認めたときに」 「キリストは 死から復活させられました」 「そして今 私がキリストとともに」 「天上に座らされていることを ありがとう」 「イエス・キリストは 私の主であり救い主です」 「イエスの名によって アーメン」 アーメンアーメン それでは皆さん 立ち上がってください あなたは今この祈りを祈ったなら もうキリストの体の一部です あなたは今代々隠されてきた 神秘の一部となったのです あなたはキリストの体の中にあり 神はあなたの父です アーメン 神がこの一週間 あなたを祝福しますように それを当たり前のことと しないようにしましょう 悪魔はあなたやあなたの家族に対する 武器を用意しています だから今神を信じましょう お父さん イエスの名によって 今週の間中彼らの向かう場所が 全てまっすぐにされますように 彼らが適切なときに適切な場所に いられるようにしてください そしてあなたの優しさと好意を 示してください 彼らが今週の間中全ての人の目に 好意を得られますように そして彼らが触れる全てのものが 繁栄するようにしてください お父さん、どうか彼らの子どもたちと 彼らの家族皆が 上階の広間で生きますように 旦那さんたちが 御言葉による水の洗いをもって 奥さんたちを洗い 夫婦が互いに励まし合い 子どもたちのことも 御言葉による水の洗いをもって 洗いますように また彼らが仕えることにおいて 霊を新しくされ ただただ仕え愛することに 喜びを見出せますように 今日彼らが その一週間に出ていく中で あなたが彼らにそのために必要な 恵みを与えてください イエスの名によって それでは皆さんご一緒に アーメン 神の祝福がありますように ハレルヤ

イエスが弟子たちの足を洗ったことは何を意味するのでしょうか?その行為は、ただ単に「謙虚さ」を示すものだったのでしょうか?それとも、もっと深い意味があったのでしょうか?この啓示に満ちたメッセージを通して、イエスの美しい仕える行為が、私たちのためにある天国でのイエスのミニストリーを反映したものであることを発見しましょう。今日、神様があなたを御言葉の水で洗い、そのことがもたらす多くの利益を学びましょう。プリンス牧師がこのストーリーから新しい契約の重要な真理を明らかにする時、あなたはキリストの内にある、栄光ある、汚れのない花嫁としての真のアイデンティティーを見出せるようになるでしょう。これらの真理に心を一新されて、ネガティブな考えや自身の無さを洗い流してもらいましょう。そうして、あなたは神様の恵みがもたらす超越的な富を受け取る準備ができるようになるのです!

エピソードについて:
2024年1月28日のジョセフプリンス牧師の「神様のことばで洗われて、リフレッシュされよう」のメッセージです。

00:00 01 はじめに: 詩篇92の神様の約束を自分のものにしよう!
03:40 02 あなたはキリストと共に天の座につく
12:57 03 神様の謎に包まれた計画が明らかになった
25:52 04 愛は仕えることに喜びを見出す
34:13 05 イエスは御言葉であなたを洗いたいと思っている
45:39 06 神様からみてあなたは完璧で、義である
54:11 07 今日、イエスがあなたに仕えてくれることを許しますか?
01:07:46 08 救いの祈り& 祝福のための祈り


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この動画の内容は、専門的な医学アドバイスと比較して優位とされるものではありません。もし愛する人が健康上の問題を抱えていたり、身体疾患を患っているとしたら、医師免許保持者や医療提供者に相談してください。また動画の内容は、薬の服用や治療の中断を促したり、それを許容するものではなく、そのような解釈をすることは一切お控えください。私たちはいかなる保証もせず、結果は個人により異なることを理解する一方、皆さんが健康面や医学的問題に関して神の知恵と導きを常に祈り求めるよう励まします。私たちは今後も信仰に立ち、神のみことばと信じるすべての人に与えられた癒しの約束を信じ、それを主張します。

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