神様に導かれる方法 | Joseph Prince | New Creation TV 日本語

ハレルヤ 皆さんに会うのを 楽しみにしていました 私は皆さんを愛しています そして皆さんのことを イエスの心と胸に据えられた 尊い宝石として見ています それでは今日も 上階の広間に秘められた 神秘についての教えを 続けていきたいと思います はじめに言っておきますが 聖書のすべての部分が重要である ということを忘れないでください すべての聖書箇所が 神の言葉なのです 「聖書には神の言葉が納められている」 という理解は間違いです 納められているのではなく 聖書自体が神の言葉なのです それはすべての聖書箇所には 神の息が吹き込まれている ということです 創世紀から黙示録に至るすべてが 神に息を吹き込まれた言葉なのです アーメン その上で旧約聖書の大部分は ユダヤ人つまりイスラエルという国に 向けて語られたものです 神が地上を見るとき言うなれば そこには3つの国家があります 神の目には 地上には3つのグループが あるだけなのです その3つとは1つが 「ユダヤ人」 もう1つが 「ユダヤ人以外の人たち」 ちなみにユダヤ人は その人たちのことを goimと呼びます そしてもう1つが 「神の教会」 1つの新しい人です このように神の目には 地上に3つのグループがあります それを理解すると 聖書がもっと分かるように なっていきます 聖書の中には 神がイスラエルに向けて 特定的に語っていることがあります だけど 今日のクリスチャンの中には 律法の下に戻ろうと してしまっている人たちがいます 彼らは旧約聖書の中で ユダヤ人がするようにと 命じられたことを 自分たちでも 守ろうとしています そしてこれはキリストの教えの ユダヤ教化と呼ばれています イエスはこのことを 黙示録で警告していました イエスはそこで 「ユダヤ人だと自称しているが」 「実はそうではない者たちがいる」 と述べています そしてローマ人への手紙では 人々を律法に戻らせようとする 教えに対して パウロが次のように 秀逸に述べています これはユダヤ人とそれ以外の人たち 両方についての言葉です "それでは肉による私たちの父祖 アブラハムは" "何を見出したと 言えるのでしょうか" アブラハムは 自分の人生を生まれ変わらせるような 何かを見出したのです アブラハムは 自分に勝利と祝福に次ぐ祝福を もたらす何かを見出しました そしてアブラハムは 自分より後で 自分と同じことを信じる すべての人たちの 信仰の父となったのです そのアブラハムについて パウロはこう言いました "それでは肉による私たちの父祖 アブラハムは" "何を見出したと 言えるのでしょうか" これはつまりアブラハムが肉に関しての 何かを見出したということです そして肉とは私たちの努力や働きを 象徴しています ではアブラハムは肉に関する つまり努力に関する 何を見出したのでしょうか? "もしアブラハムが行いによって 義と認められたのであれば" "彼は誇ることができます" "しかし神の御前では そうではありません" "聖書は何と言っていますか" "「アブラハムは神を信じた」" "「それでそれが彼の義と認められた」 とあります" それは彼の行いによってでは ありませんでした そうであったなら 彼は誇ったでしょう しかし アブラハムは神を信じた それでそれが彼の義と 認められたのです これが私たちみんなが神の前で 義と認められる方法です その人がまだ良い人生を 歩んでいない時点でも 神はその人を義と認めるということを 知っていましたか? その人の人生が まだぐちゃぐちゃであっても その人がキリストに信頼を置く瞬間 神はその人を義と認めます 今少し先走ってしまいましたが "「アブラハムは神を信じた」" "「それでそれが彼の義と認められた」 とあります" と書かれた節の 次の節にはこうあります "働く者にとっては 報酬は恵みによるものではなく" "当然支払われるべきものと 見なされます" これはその通りですよね あなたの雇用主が月末に払う給料は 恵みによる贈り物でしょうか? それとも当然支払われるべきもの でしょうか? それは当然 支払われるべきものですよね 雇用主はあなたに それを支払う義務があります そうですよね "働く者にとっては 報酬は恵みによるものではなく" "当然支払われるべきものと 見なされます" "しかし働きがない人であっても" よく聞いてください ちなみにこれは参照までにですが ローマ人への手紙4章です "しかし働きがない人であっても" "不敬虔な者を義と認める方を 信じる人には" "その信仰が義と認められます" 聞きましたか? 多くの人が神は敬虔な人を 義と認めると考えています 私たちの思考はどうしてか そのように考えるように 訓練されてしまっています 「神が義と認めるのは 敬虔な人だ」 「神が義と認めるのは 神聖な生き方をしている人だ」 「神が義と認めるのは 律法を守っている人だ」 「神が義と認めるのは 神との歩みを完璧にこなしている人だ」 「神が義と認めるのは敬虔な人だ」 違います 神に義と認めてもらうための 信仰は 「神が不敬虔な者を義と認める」 ということを信じる信仰です そして究極完全に神聖な神が 罪深い者を義と認めるためには その義の土台となるものが 不可欠です その土台こそが イエス・キリストが十字架上で 成し遂げた働きなのです イエスは十字架上で 私たちの罪を 自分自身の身に負いました 聖書にはこうあります "神は罪を知らない方を 私たちのために罪とされました" "それは私たちがこの方にあって 神の義となるためです" 「プリンス牧師」 「私の中には いっぱい不敬虔さがあります」 「悪い感情や悪い願望や 悪い考えもあります」 「神はそんな私を 義と認めるというのですか?」 そうです それは次の理由からです 罪を何も犯さなかったイエスが あなたの罪を負って 十字架上で罪となりました だから義を行っていないあなたが 義となることができるのです ハレルヤ 皆さん 心からのアーメンを 神を讃えましょう これが イエス・キリストの福音です でも私たちは そのイエス・キリストの福音を 忘れてしまっています 今の世の中は 明らかに何かを叫び求めています 彼らは何を叫び求めているのかは 自分では分かっていませんが 彼らが叫び求めているのは 神のみが与えることができる 本当の愛です 今の世の中は 本当に便利になりました AIもどんどん進歩して ChatGPTのようなものさえも 生まれました それらの発明は どれも私たちの生活を豊かにするための ものであったはずなのに そういったものが溢れる 今の世の中の方が 精神的な問題に苦しむ人は 昔よりはるかに多いのです 多くの夫婦関係も 崩壊してしまっています 様々な戦争も勃発しています 自分の肉に負けて 怒りを制御できていない人たちも 溢れかえっています 今ほどにこれだけ多くの人が これだけ長い期間 これだけ怒り続けているのを 私は今まで 見たことがありません 本当に些細なことに 人々は怒り狂っています アーメン 今世界中に数え切れないほどの 怒れる人が溢れています 今世界中に数え切れないほどの 怒れる人が溢れています 世界は イエスの尊い愛についてを まだ耳にしたことがないのです あなたが行かないなら 私が行かないなら 私たちが行かないなら 世界はイエスの愛を どのようにして聞けるというのでしょう ですよね だから私はすべてのメッセージで 福音を語るようにしています 私たちはイエスの教えを 複雑にしてしまっています YouTubeを見れば 分かりますよ そこでは イエスの教えの中心が 終わりの時であるかのように 語られてしまっています もちろん終わりの時について 理解するべき真理はあります だけどその真理は 聖書に基づいて 教えられていなければいけません 誰にも次のように言う権利は ありません 「今これこれのことが 起こっているのは」 「黙示録に書かれた神の憤りの」 「第四の鉢の中身が 注がれているからだ」 「今まさに私たちは大患難の時代に 入ろうとしている」 こんなことを言う資格は 誰にもありません 何か悪いことが世の中に起こると これは黙示録のしるしだという人が どの時代にも存在しました いやいや私たちはまだ そこまで来ていません 「プリンス牧師 何でそれが分かるの?」 それはあなたも私も まだここにいるからです 教会がまだ 地上にあるからです 聖書には上階の広間での イエスの次の言葉が記されています "わたしの父の家には 住むところがたくさんあります" "そうでなかったら" "あなたがたのために場所を用意しに行く と言ったでしょうか" "わたしが行って あなたがたに場所を用意したら" "また来て あなたがたをわたしのもとに迎えます" ここで反キリストも大患難時代も 言及されていないことに 気が付きましたか? これはまるで それらが関係ないかのようです それは携挙が イエス自身の教会のためだけに 準備された秘密のことだからです イエスが私たちを救い出し 誰も気付かぬ間に 私たちは姿を消します 聖書はそれを 次のように表現しています 「私たちはたちまち 一瞬のうちに変えられます」 「その時にまず私たちが受けるのは 新しい肉体です」 その肉体についてを 今少し掘り下げたいと思います 前にも話しましたが イエス・キリストの蘇りは ラザロの蘇りとは別物でした イエスに蘇らされたラザロは またその後で死にました しかし私たちの主 イエス・キリストの蘇りは そうではありませんでした 死から蘇った 私たちの主イエス・キリストは もう二度と死ぬことはありませんでした そして私たちは その蘇りの中にいます 今私が何と言ったか 聞いてくれましたか? 私たちは その蘇りの中に今いるのです これからその中に入るのでは ありません もちろん私たちのこの肉体の心臓は いつか止まることになっています しかしこの肉体は 私たちそのものではありません 私たちは霊であり 魂であり 肉体はその私たちが地上にいる間に 宿っている住まいです だから心臓が止まるとき 私たちはこの肉体を離れて 病院などの自分がそのときいた場所を 眺めながら 上に上げられます そして携挙のときに与えられる 新しい肉体を待つことになります アーメン そしてその復活の力は 本当に強大なもので 海の中にいる死者さえも 蘇らされます 黙示録に そのことが次のように書かれています 「海はその中にいる死者を出した」 黙示録のこの箇所を 読んだことがありましたか? 私は時々 「土葬すべきなのか」 「火葬すべきなのか」 という質問を受けます これはあるクリスチャンたちの間で いまだに議論されていることです 特にシンガポールは国土が小さいので 火葬という選択が主流です しかしクリスチャンは 火葬ではなく 土葬されるべきだと言う 人たちがいます だけど聞いてください 火葬には 何の問題もありません 海がその中にいる死者を 出すのですよ 海の中にいる死者の状態を 想像できますか? その人を構成していた原子は もうそこら中に散らばっているでしょう もう魚に食べられてしまっている かもしれません しかし神は そのすべての原子の場所を掌握していて 偉大な復活の力をそこに働かせて そのすべてを集めて 元通りにすることができます 死への勝利は それほどに力強いのです 私たちは天国でぷかぷか浮かぶの ではありません 肉体を持つことになります 握手もできるし 「よー!」とハイタッチもできます アーメン 天国は 私たちが お化けのようにぷかぷかと 浮かんでいる場所ではないのです 天国は私たちが 栄光を受けた肉体で過ごす場所です そしてそれはイエスが 死から復活した肉体と同じものです そしてその肉体は 実際に見て触れられるものでしたね イエスの復活した肉体には 骨と肉がありました そうですよね それでありながら 消えたり現れたりもできた 私たちの地上の肉体では それはできませんね でも復活したイエスには それができました でも彼が消えているからといって 彼がそこにいないわけでは ありませんでした そこにいながらも 見えなくなることができたのです また11キロ離れたエマオに 突然現れたりもしました その新しい肉体は 時も空間も超越しています そしてその新しい肉体は 決して死ぬことがありません また見た目も常に ミスター・ユニバースです アーメン 今のようなポーズは ローレンス牧師にお願いすべきでしたね 皆さんが笑えば笑うほど 私は侮辱を感じていますからね そして女性の皆さんは皆 ミス・ユニバースのようでしょう その新しい肉体には もう欠陥は何もなく 病気になることもありません どれだけの間でしょう? 永遠にです その新しい肉体では 退屈を感じることもありません スクリーンタイムの必要は ありません そこで見るすべてが スクリーンで見るものとは 比べ物にならないほど 美しいのですから 永遠に 退屈することはないのです アーメン それではイエスが上階の広間で 語ったことに話を移していきましょう イエスが十字架に向かう前に 上階の広間でした最後の行動は 何でしたか? その前にもう一度 福音についてのおさらいです 福音とは 私たちがまだ不敬虔な時に 神がその不敬虔な私たちを イエスを信じる信仰によって 義と認めてくれるというものです アーメン 私たちが信じているのは この信仰による義です アーメン ここまでよろしいですか 先週のメッセージでは イエスが上階の広間で 弟子たちの足を洗ったことに 目を留めて 足の洗いについてを 話しましたよね 今日はそれとはまた別のことを 話したいと考えていますが その前にまずもう一度 ヨハネ13章に書かれた この足の洗いについてを読みましょう "さて過越の祭りの前のこと" "イエスはこの世を去って 父のみもとに行く" "ご自分の時が来たことを 知っておられた" 最高ですね イエスはどこかランダムなところに 出発しようとしていたのではなく 自分を愛する父の御元に 出発しようとしていたのです アーメン この時イエスは自分が誰のもとに 行くのかを分かっていたのです 同様にイエスを信じて この世を去った皆さんの大切な人たちも 彼らはただ ある場所に行ったのでなく 自分を愛してくれている イエスのもとに行ったのです そして次の部分も最高ですよ "そして世にいるご自分の者たちを 愛してきたイエスは" "彼らを最後まで愛された" この「最後まで」という言葉には 「極みまで」という意味があります つまりイエスは 彼らを極みまで愛したのです だからこの最後は 終わりとしての最後ではありません ここで「最後まで」と訳された ギリシャ語は 「極みまで」という意味です "夕食の間のこと悪魔はすでに シモンの子イスカリオテのユダの心に" "イエスを裏切ろうという思いを 入れていた" "イエスは父が万物を ご自分の手に委ねてくださったこと" "またご自分が神から出て" "神に帰ろうとしていることを 知っておられた" 裏切りについての後に この"知っておられた"の節がありますね これは私たちが意識すべきことを 物語っています 私たちは 悪魔がしていることよりも 神が委ねてくれたものを 意識すべきなのです イエスは後に「君たちのうちの 一人が裏切る」と確かに言います でもこの時 イエスが意識していたのは 父が万物を自分に委ね 自分が神から出て 神に帰ろうとしていることでした その時イエスの意識は 悪魔がユダの心にイエスを裏切ろう という思いを入れたことではなく 父が万物を自分の手に委ね 自分が神から出て 神に帰ろうとしていることにありました そのすべての力が委ねられた手で イエスは 弟子たちの汚れた足を洗ったのです アーメン "イエスは父が万物を ご自分の手に委ねてくださったこと" "またご自分が神から出て" "神に帰ろうとしていることを 知っておられた" 私たちは 本当の意味で謙遜になる前に 自分が誰であり 神が全てのものを 自分に与えてくれたということを 知る必要があります 神は何年も前にこの箇所から あることを私に示してくれました それは高ぶる人たちは 自分の価値に不安を抱いている人たち だということです これをぜひ覚えておいてください 運転中に怒鳴られたり 煽られたりしたら 自分は彼らとは違うと 自分に言い聞かせるのです あなたは 天のお父さんを知っていて 彼があなたを愛し あなたが彼のものであることを 知っています そしてあなたは キリストの中にある自分の手に 彼が万物を委ねてくれたことを 知っています あなたは神が万物を委ねた イエスの共同相続人だからです 運転中に あなたに怒鳴りつけてきたその人は 何かに葛藤しているのです そしてそれを あなたにぶちまけているだけです あなたがその葛藤の原因であるわけ ではありません あなたはただその葛藤の吐け口に なっているにすぎません 私たちは自分が責めてしまっている 人たちの立場に立って 考えようとする必要があります 私たちは彼らの状況が わかっていないことがほとんどです 例えば 親が子どものことについて 教師に向かって どなり散らしているのを 見たことがあるかもしれません でもあなたはその親の子どもが 実は自閉症であることを知らない そしてその親は その子と毎日を共に暮らしている それを知ると その親にもう少し寛容でいられますよね このように相手の立場に立って 考えてみることは重要です 多くの場合 私たちの人に対する判断には 愛が欠けています 今日のこの聖書箇所は 私たちに 人々をもっと愛すること そしてイエスが残した新しい戒めを 守ることを教えてくれるでしょう その新しい戒めとは イエスがこの後 上階の広間で明かしたものです 弟子たちの足を洗うという イエスの行為は どれほど愛に満ちていたことでしょう イエスは万物が自分の手に 委ねられていることを知りながら それをしたのです エジプトで全権力を委ねられていた ヨセフは このイエスの姿を象徴しています 自分を裏切った兄弟たちが 自分の目の前に立ったとき ファラオの右腕としてエジプトにおける 全権力を与えられていたヨセフは どうしたでしょうか? ヨセフはその手にエジプトにおける 全権力を持ちながら 何年も前に自分を裏切り 自分を売り渡した兄弟たちを 赦したのです ヨセフはこう言いました "「どうか私に近寄ってください」" "「私をここに売ったことで 今心を痛めたり」" "「自分を責めたりしないでください」" "「あなたがたは 私に悪を謀りましたが」" 「神が多くの人の命を救うために 私をここに遣わしたのです」 本当の意味で謙遜になれるのは このヨセフのように 自分が誰であり何であるのかに 確信を抱いている人たちだけです "イエスは父が万物をご自分の手に 委ねてくださったことを知っておられ…" "…夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ 手ぬぐいを取って腰にまとわれた" 自分が誰であるのかを 知っている人だけが 本当の意味で謙遜になる 余裕を持っています 弟子たちはこの時その逆を 実践してしまっていました 「いや そんなの俺の仕事じゃないよ」 「俺はペテロだぞ」 「最初のローマ法王になる男 ペテロだぞ」 トマスはこう言う 「いや僕はやりたくないよ」 「今日が僕の番だとは疑っちゃうね」 アーメン とにかく イエスがそれをしました このイエスの十字架の前の最後の行為は とても象徴的です 私がわざわざこれが象徴的だと 述べているのは 私たちがこれを文字通り 受け取りすぎてしまっているからです もちろん時々これを 実際にやってみるのは良いことです 桶に水を入れて 奥さんや子どもたちの足を 洗ってあげましょう アーメン 子どもたちが幼い時 彼らをお風呂に入れてあげるのって 最高じゃないですか ずっとそうしてあげていたい と思うぐらいですよね アーメン それは愛ゆえです 愛はそのようなことをするのが 大好きなのです だからたまには彼らの足を 洗ってあげてもいいと思います だけどイエスが 弟子たちの足を洗って 「あなたがたも互いにこれをしなさい」 と言ったのは 文字通り足を洗い合うことでは ありません イエスはこう言いました "「あなたがたはわたしを『先生』とか 『主』とか呼んでいます」" "「主であり師であるこのわたしが あなたがたの足を洗ったのであれば」" "「…それを行うなら あなたがたは幸いです」" ここでイエスは 幸せの秘訣を教えていたのです この箇所を 一緒に見てみましょう "わたしがあなたがたにしたとおりに あなたがたもするようにと" "あなたがたに模範を示したのです" "これらのことが分かっているなら そしてそれを行うなら" "あなたがたは幸いです" ここで「幸い」と訳された ギリシャ語はmakariosで 「幸せ」という意味です 皆さん もし私たちがお互いの足を洗い合うなら 私たちは幸せです 繰り返しますが これは象徴的な意味ですからね 文字通り足を洗い合うことが 問題なのではありません もし私の足を洗いたければ どうぞやってください 実際足を洗い合うことに 問題はありません だけどここには見逃してはいけない 象徴的な意味合いがあります そうはっきり言えるのは ペテロがイエスに 「あなたが私の足を 洗ってくださるのですか?」と言った時 イエスがこう答えたからです "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" "「後で分かるようになる」" その会話を覚えていますか? ペテロはそれが 足を洗うという行為であることと イエスが謙遜さを示している ということを分かっていたはずです それはそこにいた誰にも 明らかなことでした だからイエスが "「わたしがしていることは 今は分からなくても」" 「後で分かるようになる」 と言ったのは そこに込められた象徴的な意味合い のことだったのです そしてその象徴的な意味合いとは イエスが父の右の座で 私たちの大祭司として 毎日私たちの足を洗ってくれている というものです 今朝私は皆さんの足を洗う特権に 預かっています この足の洗いは 救いのことではありません ペテロがこの後イエスに 何とお願いしたか覚えていますか? ペテロは 「そんなこと言っちゃうの?」 というようなことを言う人でした 口を滑らせて ドジを踏んでしまうのです 「口のチャックを 閉められなかったのかな?」 「全くドジだな」と 私たちは ペテロをバカにしがちですが 本当はペテロがそういった質問を してくれたからこそ 私たちは その答えを知ることができています 皆さんにも経験があると思います 自分では恥ずかしくて聞けないから 他の誰かに聞かせる またはクラスでも 自分が聞きたかった質問を 他の誰かが聞いてくれてありがたかった ということもありますよね とにかくペテロが 「決して私の足を洗わないでください」 と言ったから 「わたしが あなたを洗わなければ」 「あなたには わたしとの分はありません」 という答えが出てきました これは「あなたはわたしの中には いません」ではありません だとしたら これは救いのことになります 「わたしとの分はありません」とは 「わたしと一緒に流れられない」 ということです つまり 向かう方向が違っているのです この箇所で用いられているのは 「中に」を意味するenではなく 「〜と一緒に」を意味する metaです 「わたしがあなたを洗わなければ あなたにはわたしとの分はありません」 するとペテロは言います 「足だけでなく 手も頭も洗ってください」 ペテロはとても極端ですね 中間地点にはいられない 道路のこちら側にいたと思ったら 中間を飛び越えて あっち側に行ってしまう そのようなタイプの人を あなたも知っていますか? もしかしたら あなた自身がそうですか? 極端にこうか極端にああ じゃなければいけない 卵が体に良いと聞くと 一度に 10個も卵を食べようとする とにかくここではイエスが 「わたしが あなたを洗わなければ」 「あなたには わたしとの分はありません」と言うと ペテロは「足だけでなく」 「手も頭も洗ってください」 と言いました するとイエスはこう言います "「水浴した者は…」" よく聞いてください "「水浴した者は 足以外は洗う必要がありません」" "「全身がきよいのです」" これは最高です なぜならこの「水浴」とは 私たちが救われた時のことだからです 私たちが キリストに信頼を置いた瞬間 私たちは この水浴を経験したのです それは聖書で 「聖霊による再生と刷新の洗い」 と呼ばれています そしてこの水浴は 繰り返されることはありません あなたは一度救われたら 救われているのです 私がここで言っているのは 自称クリスチャンのことではありません 実際にはイエスを知らないけど 自分の宗教として 自分はクリスチャンであると 考えている人たち 自分がクリスチャンだと 公言している人が 本物のクリスチャンなわけでは ありません 永遠のいのちを所持しているのが 本物のクリスチャンです アーメン ここでは イエスはこう言いました "「水浴した者は… 全身がきよいのです」" 神の子どもである皆さん このイエスの言葉を 深く受け止めたことがありますか? あなたが完全にきよいのだ ということを あなたは 深く受け止めていますか? 「いやそんなわけないよ プリンス牧師」 「今朝だって ここに向かう運転中に」 「ムカッと来て 平常心を失っちゃったんだもん」 いや神はそのあなたを見て 「完全にきよい」と言っています 思い出してください 神はイエスが成したことゆえに あなたが不敬虔なときから あなたを義と認めています だけどそれをなかなか 受け入れられない人もいます その事実を自分の中で正当化することが できないのです だけどそれは 自分の力で義となることを手放せずに 追い求めてしまっているからです 彼らは無償の贈り物としての義を 受け入れることができないのです 自分で自分の義を生み出すことを 追い求めているからです 皆さん 聞いてくれていますか? とにかくイエスの足を洗う行為には 象徴的な意味合いがありました 私たちクリスチャンが 毎日洗う必要があるのは足だけです そしてそれは 私たち自身が洗うのではなく イエスに洗ってもらうのです 聖書を開くたびに またキリストが中心のメッセージを 聞くたびにこう祈ってください 「イエス、私の埃まみれの足を 洗ってください」 そしてこの足とは あなたの地上における歩みを 象徴しています 私たちは地上を歩む中で あらゆる冒涜を耳にします またあらゆる悪い言葉や あらゆるネガティブな考えや あらゆる神への疑いも 耳にします 世の中には 悪い影響を与えてくる人たちもいて 性欲をかきたてるような広告は そこら中に溢れています そのような中で地上に触れている 私たちの足は汚れます 例えば黄金の板は 泥に落ちても 黄金の板のままですね そしてその価値も変わらずある だけど泥で汚れてはいます だからその黄金の板を 水で洗う必要があります それによって その黄金の板は輝きを取り戻します だけどそれによってその黄金の板の 価値が上がるわけではありません そうですよね アーメン それが御言葉による水の洗いが 私たちに成すことです アーメン 今この足の洗いについて 前回は話さなかった もう一つのことを伝えたいと思います それは イエスが弟子たちの足を洗った後で その足を手拭いで拭いた という点です 聖書にはこうあります "イエスは 夕食の席から立ち上がって" "上着を脱ぎ 手ぬぐいを取って腰にまとわれた" "それからたらいに 水を入れて弟子たちの足を洗い" "腰にまとっていた 手ぬぐいでふき始められた" 3節にはイエスは… "ご自分が神から出て神に帰ろうと していることを知っておられた" とありましたね これはつまりイエスはそこで 自分が天国ですることを示していた ということです イエスのこの象徴的な行為は イエスが 天国で私たちの大祭司として 私たちのために成してくれることを 示していたのです イエスは今でも自分に属する人たちに 仕えています ハレルヤ イエスはある時 次のように言いましたね 「人の子は 仕えられるためではなく」 「仕えるために来た」 私たちはイエスが私たちに仕えることを 受け入れることによってのみ 神の良い仕え人になれます アーメン そしてイエスは あなたの足を洗いたいのです では聖書を読まない人には どうしたらよいでしょう 「あ〜あの人は 聖書を読まないんだよな」 それならあなたが聖書として その人のところに行くのです あなたの言葉が その人にとっての足の洗いに なり得ます その人は教会に来て メッセージを聞く気は さらさらないかもしれません だけどあなたが その人に会うたびに あなたにはその人の足を洗う特権が あります そしてそれをするなら あなたはとても幸せになるでしょう イエスがそう言いました "それを行うなら あなたがたは幸いです" キリストについての何かを 語りましょう その人が次のように 感じられるように話すのです 「あ〜また 教会に行ってみようかな」 「私は今あの人と話して」 「自分は今よりもっと良い人生を 生きられると」 「向上心をかきたてられたぞ」 「そう言えば」 「イエスと共に過ごす時間って 素晴らしかったな」 「神の輝きの素晴らしさを 忘れちゃってた」 「あ〜あの人と話して それをまざまざと感じたぞ」 相手にこのような感覚を残せる人 となれるように祈りましょう これこそ 実践的な愛ですよね アーメン "「主であり師である このわたしが」" "「あなたがたの足を 洗ったのであれば」" "「あなたがたもまた互いに 足を洗い合わなければなりません」" "「それを行うなら あなたがたは幸いです」" これが上階の広間における 優先事項その1です イエスは今まさに 自分が天国で私たちのために してくれていることを示した上で 「君たちも互いに足を洗い合いなさい」 と言いました 繰り返しますが これは文字通り足を洗い合う ということではありません もちろんそれを文字通り行うことにも 問題ありませんが イエスは霊的に起こっていることを 示していたのです そしてこれはあなたが 奥さんや子どもたちに 話しかける時にもできることです こう語りかけましょう 「聖書でイエスがこんなことをしたって 書かれているのを昨日読んだよ」 ちなみに私は 今のこのメッセージを 昨日の午後息子のジャスティンに 語りました するとジャスティンは こう反応しました 「へえすごーい」 その「へえすごーい」の部分は これからやってきますよ それでは先に進みましょう 5節の イエスが弟子たちの足を手拭いで拭いた という点について話すのでしたね だけどその前にまたもう一つ クリスチャンの皆さん その水が冷たすぎるようにも 熱すぎるようにもしないでください 足を火傷させてはいけません 「しめしめ足を洗ってやるぞ」 という態度ではいけません または次のように 冷たすぎる言い方もいけません 「おい君はもう 教会に行ってないよな」 「仕方ないから 足を洗ってやってるぜ」 「あんたは 信仰を捨ててしまったよな」 「以前はあんなに熱かったのに」 こんな風に批判的に指摘したら 人々はその水を冷たくしか感じません また次のように熱すぎる場合も あります 「おい聞くんだ イエスはもうすぐ迎えに来る」 「だけどあなたは取り残されるかも しれない」 「そしてあなたは 反キリストを目撃し」 「世の中は滅茶苦茶になり あらゆる裁きが世界に下るだろう」 ちなみにこれはその通りですよね 反キリストは確かに地上に現れ 世界にあらゆる裁きが下され さらなる疫病も起こります だけどイエスは そのすべてが起こる前に 私たちを迎えに来てくれると 約束しました そのためにイエスは私たちのために 場所を用意しに行ったのです だから脅しのように伝えるのは 熱すぎる水です 人々の足を洗う水は ちょうど良い温度にしてください そして彼らの足を濡れたままにして おいてはいけません それだと気持ち悪いです フレッシュに感じるタイミングは いつですか? 洗った後ですか? 洗っている最中ですか? もちろん洗っている最中に 一番フレッシュに感じるという 人もいると思いますが 大半は洗い終わった時に フレッシュでクリーンに感じるはずです そして洗った後にあなたは自分から 泥に入っていこうとは思いますか? 思いませんよね? だから人々に「罪を犯すな」と 言う必要はないのです 洗われたと感じた後では 罪を犯したくないと 自然に感じているからです 自分が汚いと感じながら 教会を出ると罪を犯しやすいのです 「もう汚いんだったら」 「もっと汚くなることも 気にならないよ」 だけど自分がきれいなら その自分を汚したくはありません 伝道者の皆さん 牧師の皆さん 福音を語りましょうよ 恵みの福音をです 他には福音はありません 他にはイエスはいません 私たちが語るべきなのは 恵みの福音です パウロは言いました "神の恵みの福音を証する任務を 全うできるなら…" 心からのアーメンを いただけますか? 神を讃えましょう では次にイエスが手拭いを取って 腰にまとわれた点に注目です ここで「手拭い」と訳された ギリシャ語を調べてみると それはlentionで その意味は亜麻布です 亜麻布は聖書において 義の象徴として用いられています 黙示録には 「輝くきよい亜麻布とは 聖徒たちの義のことである」とあります 黙示録に描かれた聖徒たちは皆 輝くきよい亜麻布を着ているのです そしてその亜麻布とは 聖徒たちの義のことです ではその義は 誰による義でしょう? この義は 動詞ではなく名詞です これは誰による義でしょう? イザヤ書11章には メシアである私たちの主イエスの 上に置かれた 主の霊の7つの層が リストされていますが その5節にはメシアについて 次のように書かれています "義が彼の腰の帯となり…" だからあなたが腰を下げて 誰かの足を洗うとき つまりあなたが語る神の言葉によって 誰かの足を洗うとき その足を必ず亜麻布の手拭いで 拭いてあげるようにしましょう つまりその人が 自分はキリストにあって義である という感覚を残してあげるのです 教会から それぞれの場所に出ていく皆に 自分はキリストにあって義である という感覚と共に 出て行かせてあげましょう 罪悪感や「自分は汚れている」 という感覚ではなく 自分はキリストにあって義である という感覚とともにです この亜麻布の手拭いを 忘れないでください どんな時にも福音のメッセージは そのように締めくくられるべきです だけどどういうわけか 何世紀にもわたって 人々が罪の意識を持つように させることが 教会のメッセージの主流と なってしまっていました でも聖書はそれが 古い契約のやり方だと述べています 古い契約のやり方とは "文字は殺し"と言われる 責め立てるミニストリーです 律法の下にある その責め立てるミニストリーも 栄光を帯びたものではありました しかし義とするミニストリーは それを凌駕する栄光を帯びています これがこの終わりの時代にあって 神が世界中に立ち上げている ミニストリーです ミニストリーとは何でしょう? それは何かを与え 奉仕することです それは責め立てることにも 義とすることにもなり得ます 悪魔はこの義とするミニストリーを 恐れています だからその教えを攻撃しています そしてそれを教えている人たちの 人格や信用を誹謗中傷して 彼らが義とするミニストリーを 全うできないように働きかけています 今その理由を一度だけ伝えます 一度だけで理解してもらえるか 試したいと思います ローマ5章17節 ”もし一人(つまりアダム)の違反により” "一人によって死が支配するように なったのなら" 「私は神も聖書も信じないよ」 と言う人がいるかもしれません だけどその人も間違いなく 死の存在は信じているでしょう 間違いありません だけどそれさえも 聖書が真理であることの証なのです そして誰もが 本能的に死を嫌がっています 死は自分たちに属するべきものではない ということを知っています それが人類の一部であるべきではない ということを知っています だけど神の言葉を知らずしては 私たちはなぜ人が死ななければ いけないのかがわかりません だけど本能的にそうあるべきではない のはわかっています 赤ちゃんが死ぬこと それは何か不自然です 彼らは本当は 成長するようにと また生きるようにと デザインされているからです なぜ死ななければいけないのか? 人が抱えるこの葛藤は 神の言葉が真理であることを 証しています 神を信じたくない? でも死の存在を否定できないあなたに 実際はそんな選択肢はないんだよ 死の存在を信じていない? それは家に閉じこもっていて 現実に向き合っていないからです すべての人が死にます だけどそこには例外もあります イエスを信じる者たちには 死ぬ前に 携挙が訪れる可能性があるからです 聖書には 「私たちは皆眠るわけではない」 と書かれています それは「私たちは皆が 死ぬわけではない」という意味です この「私たち」とは イエスを信じる人たちのことです そしてこのパウロの言葉は 携挙のことを指し示しています 神を讃えましょう よく聞いてください "もし一人の違反により" "一人によって死が支配するように なったのなら" "なおさらのこと" 今一つ聞いてもいいですか? 死は 人種や言語や宗教に関係なく 至る所で 支配してはいませんか? 国や場所も関係なく 死は支配していますよね 世界の頂点に立ったとしても 死ぬ時は死にますよね 世界の最も深い所に潜れたとしても 死ぬ時は死にますよね 違いますか? どんなAIも それを止めることはできません ChatGPTにお願いしたって その問題が解決されることはありません 神の言葉に時間を費やしましょう それがあなたに知恵を与えます ChatGPTが与えてくれるのは 知識だけです だけどその知識を用いる能力が 知恵であり それは神から来るものです "なおさらのこと" 世の中では死こそが なおさらのことのようですね 死は 全てを支配しているじゃないですか でもここではなんと その死に対して "なおさらのこと"と さらに勝るものが示されています "もし一人の違反により" "一人によって死が支配するように なったのなら" "なおさらのこと" "恵みと義の賜物をあふれるばかり 受けている人たちは" 賜物 doreaです それは賜物 無償の贈り物なのです "恵みと義の賜物をあふれるばかり 受けている人たちは" "一人の人イエス・キリストにより" "いのちにあって支配するように なるのです" どこで支配するようになる? いのちにあってです ちなみにここで 「支配」と訳されている basileuoから basilicaという言葉も派生しました いのちにあって支配する 死が完全に支配していたのにも 勝る形で 義の賜物を受けている人たちは いのちにあって支配するように なるのです 悪魔がこの教えを攻撃しているのは これが理由です もしあなたがいのちにあって 支配し始めたら 悪魔はもう 支配できなくなるからです 罪について議論する必要はありません あなたはその上に君臨するように なるのだから あなたは今支配しているかのような 事柄について 議論する必要はありません あなたはその上に君臨するのだから このことは旧約聖書の時点で 約束されていました それは神がアブラハムに こう約束した時です "あなたの子孫によって" "地のすべての国々は 祝福を受けるようになる" "王たちが あなたから出てくるだろう" これはイスラエルの王たちだけのことを 指しているのではありません あなたがた皆のことを 指しています 黙示録1章に 次のように書かれている通りです イエスは"私たちを愛し" "その血によって 私たちを罪から解き放ち" 「私たちを王とし」 「ご自身の父である神に仕える 祭司としてくださった」 アーメン? そして今私たちは王として キリストと共に座らされています アーメン ここまでよろしいでしょうか いいですね 人々の足を洗う時は ちゃんと亜麻布の手拭いで 拭きましょう 私も今皆さんの足を洗っていますよ そして亜麻布の手ぬぐいで 拭いています 今こう言ってください 「私はキリストにあって 神の義だ」 もしあなたの思考や悪魔が 「え、まさかお前が神の義?」 「今朝だって昨晩だって 先週だって…」 とか語りかけてきたら それは黙らせてください そしてそれが義の賜物であることを 思い出してください それは自分で頑張って 手に入れたものではないのです 実際私たちは 自分たちがした全てのことによって その義を受け取る資格を 失ったはずでした だけどそれは 賜物として与えられたのです そしてその賜物が 私たちを生まれ変わらせます アーメン ここまでよろしいですか? それではイエスが 上階の広間で語った広間で語った 新しい戒めについてに 進みましょう 13章34節からです "わたしはあなたがたに 新しい戒めを与えます" "互いに愛し合いなさい" "わたしがあなたがたを愛したように あなたがたも互いに愛し合いなさい" "わたしがあなたがたを愛したように あなたがたも互いに愛し合いなさい" なぜイエスはこれを 「新しい戒め」と呼んだのでしょう? 皆さんなぜこれは 「新しい」なのでしょう? 私たちは 「新しい」と呼ばれるものを見るとき 思わず「わ〜すっげえ」 「参ったよ」と言いますね 古いものがあるということは 新しいものがあります そして新しいものがある ということは 古いものがあるということです では古い戒めとは何でしょう? 古い戒めとは 「自分自身を愛するように 互いに愛し合いなさい」 あるクリスチャンの精神科医が この古い戒めに囚われて 次のように伝えていました 「あなたは 自分自身を愛せるように」 「隣人を 愛さなければいけないよ」 「あなたは自分を愛さなければ 隣人を愛せはしないよ」 この「自分自分自分」という教えは 古い契約のやり方です 今日私たちは皮肉にも 「イエスが愛してくれたように 互いに愛し合う」 という新しい戒めを 「自分自身を愛するように 隣人を愛する」という古いやり方で 果たそうとしてしまっています つまり恵みの命令を 律法の下で 果たそうとしているのです しかしイエスはこう言いました 「皆 君たちに新しい命令を与えるよ」 「え、新しい命令だって? 何だろう」 "「わたしが あなたがたを愛したように」" "「あなたがたも 互いに愛し合いなさい」" ではこの"わたしがあなたがたを 愛したように"の愛は どのような愛だったのでしょう? イエスはこの直前に それを示しました この章は "世にいるご自分の者たちを 愛してきたイエスは" "彼らを最後まで愛された" と始まりましたね そしてイエスは 彼らの足を洗うことによって また真理を明かすことによって 彼らを愛しました そしてイエスは ここでこう言ったのです "わたしが あなたがたを愛したように" "あなたがたも 互いに愛し合いなさい" 「わたしがあなたがたの足を 洗ったように」 「あなたがたも 互いの足を洗い合いなさい」 あなたは自分に対するイエスの愛を 理解することなく 愛することはできません 「でもプリンス牧師」 「聖書には 心を尽くし命を尽くし」 「知性を尽くし 力を尽くして」 「あなたの神、主を愛することが 第一の戒めであると書かれています」 この中でどれだけの人が この聖書箇所を聞いたことが ありますか? これが第一であり 最も偉大な命令です そしてこれは今でも 最も重要な命令として語られています 私はその点で 言い争うつもりはありません これが第一で最も偉大な命令 であることは イエスが語ったことです でもイエスは 「第一の戒めは何ですか?」と聞かれて 「すべてを尽くして あなたの神である主を愛することだ」 と答えました だけどイエスが 律法の下にいる人たちを救い出すために 律法の下に生まれてきたという点を 忘れないでください イエスが この答えを述べたとき イエスはイスラエルのメシアとして 働いていました イエスは初めは弟子たちに 「異邦人の道に行ってはいけません」 と言っていましたね その時点におけるイエスの働きは ユダヤ人に向けられていたのです しかしイエスの死は ユダヤ人もそれ以外も含めた 全世界のためでした "神は…そのひとり子を お与えになったほどに" "世を愛された"とありますね 「ユダヤ人だけを…」 ではありません だけど「最も重要な戒めは何ですか?」 という質問に対する イエスの答えが 直接的に向けられていたのは ユダヤ人でした しかしイエスはその後で 新しい戒めを与えました 皆さん これをよく聞いてください 「最も重要な戒めは何ですか?」 「あなたは心を尽くし」 「いのちを尽くし 知性を尽くして」 「あなたの神 主を愛しなさい」 私はこの発言をする人に いつもこう聞きます 「あなたはそれをしましたか?」 私は今日に至るまで この質問に「イエス」と答えられた人を 知りません 「ベストは尽くしている」 とは言えます だけど律法は ベストを尽くしているかではなく 守るか破るかです 失礼ですが 律法を自分の高さにまで 引き下げる人こそが 真の無律法主義者です 無律法主義者とは 「律法などない方が良い」と 主張する人たちです 私は無律法主義者では ありません むしろ神が律法を与えた理由ゆえに その賛同者です 律法があるから罪を知れるのです 私はこの点において 一貫していますよ あなたがどんな形でも 律法の下に来るなら あなたは呪いの下にいます "律法の行いによる人々はみな のろいのもとにあります" と書かれている通りです "律法の行いによる人々はみな" です 「律法を破った人たちはみな」 ではありません これはつまり律法によって 義となろうとする瞬間に 呪いの下に来てしまう ということです それは次の理由からです よく聞いていてください 律法は そのただ一つを守らないだけでも 呪いをもたらします 律法には次のような感情は 伴わないからです 「そうかそうか」 「守るように ベストは尽くしたんだね」 律法は そんなお涙頂戴には応じません だから真の無律法主義者とは 「あなたは律法を守ることができる」 と語る人たちです では私たちは モラルを投げ捨てて 好き勝手に生きて 姦淫や泥酔にふけったら良い ということなのでしょうか? もちろんそうではありません もしそうだとしたら 恵みは律法に勝るものでは なくなってしまいます 恵みは 律法より栄光あるもので なければいけません そして恵みは内側からの生まれ変わりを もたらすのです しかし私たちは 律法に対して死んでのみ 神に向けて生きることが できるのです これはパウロの言葉の引用です 「私は神に対して生きるために 律法に対しては」 「律法によって死んだのです」 またローマ7章には こうあります "あなたがたもキリストのからだを通して 律法に対して死んでいるのです" "それはあなたがたが他の方 すなわち" "死者の中からよみがえった方の ものとなり" ここで言っている律法とは 動物の生け贄や祭日についての 儀式的な律法のことについてだと 思いますか? 失礼ですがそれは間違いです たった今引用した ローマ7章4節の数節後で パウロはこう述べているからです "実際律法が「隣人のものを 欲してはならない」と言わなければ" "私は欲望を知らなかったでしょう" この「隣人のものを 欲してはならない」は 十戒の第10番目です この10番目を パウロはどうしようもできませんでした 欲しがらないようにすれば するほど 欲しがってしまうからです 律法は人に自分が罪人であることを 示すために与えられたのです それはあなたの顔を映す鏡 のようなものです わかりますか? それはあなたを 映し出しているだけです だから鏡を責めてはいけません 「あなた 他の鏡を持ってきてちょうだい」 「この鏡はシミだらけだし シワだらけよ」 「え? 鏡にシワがあるわけないでしょ?」 「こんな鏡 あっちに持ってって」 鏡はただそのまま 映しているだけであって それを変えることはできません そして鏡で自分の顔に シミや傷を見つけても 鏡でそれをきれいにすることは できません 「だけどプリンス牧師」 「私たちは 神聖さやモラルを大切にすべきだ」 私もそう思います だけど聞いてください 恵みから来るモラルは 律法によるモラルを はるかに凌いでいます 例えば恵みによる謙遜は 知らずと謙遜になっていて 自分が謙遜であるという 自覚さえもありません だけど律法による謙遜は 頑張って謙遜になったので 自分は謙遜だという 自意識が強く あなたはそれによって 「私はどうやって 謙遜さを手に入れたのか」 という本を 書きたくなってしまいます それは偽物の神聖さです そして恵みこそが 本物の神聖さをもたらすのです ここまでよろしいですか? では次に第1ヨハネ4章を 見てください いきますよ "それによって神の愛が 私たちに示されたのです" 皆さん こちらを見てください "それによって神の愛が 私たちに示されたのです" この「それ」とは何ですか? これです "神はそのひとり子を世に遣わし その方によって" "私たちにいのちを 得させてくださいました" "それによって神の愛が 私たちに示されたのです" "ここに愛があるのです" "私たちが 神を愛したのではなく" いいですか? 今明かされますよ "ここに愛があるのです" 皆さん神の愛の定義を 聞く準備はいいですか? "ここに愛があるのです" "私たちが 神を愛したのではなく" 私たちが神を愛するのは 律法の定めでしたね "神が私たちを愛し" それは恵みそのものです "私たちの罪のために宥めの ささげ物としての御子を遣わされました" ついさっき述べた通り イエス自身も次の戒めが 最も重要だと認めました "あなたは心を尽くし いのちを尽くし" "知性を尽くしてあなたの神 主を愛しなさい" "『あなたの隣人を自分自身のように 愛しなさい』という第二の戒めも" "それと同じように重要です" "この二つの戒めに" "律法と預言者の全体が かかっているのです" 間違いありませんね? イエスは多くの財産を持つ ある青年にはこう言いました 財産を売り払って 貧しい人たちに与えなさい ところでこの命令は この青年独自に 向けられたものであり 全てのクリスチャンに 向けられたものではありません しかし彼はそれを聞いて 立ち去りました 律法を守ることには 必ず落とし穴があります イエスは彼にとっての その落とし穴を知っていて それを指摘したのです この律法における落とし穴は 人によってそれぞれ違います 誰もがこれはなかなか守れない というものを持っています パウロにとってのそれは 「隣人のものを欲しがってはならない」 という戒めでした これは特に 外側には現れない問題ですね 「殺してはならない」などは 外側に現れた問題です だけど誰にも気付かれずに 隣人のものを欲しがることは できてしまいます どうでしょうか? そうですよね "人はうわべを見るが 主は心を見る" でもこれを見てください 愛とは何ですか? "私たちが 神を愛したのではなく" つまり律法ではないのです 「心を尽くし魂を尽くし力を尽くして 神を愛しなさい」 と言っている律法は 愛ではないのです それが新しい契約において 神が私たちに求めている愛 ではないことを 神は私たちに 知ってもらいたいのです 本物の愛とは 私たちの神に対する愛ではなく 神の私たちに対する愛のこと なのです だから聖書が述べている通り 律法の下ではなく 恵みの下にいる私たちは 次のように自分を責めるべきでは ありません 「私は神を十分に愛していない」 「私は神を十分に愛していない」 「私は神を十分に愛していない」 すると悪魔も 「お前は神を十分に愛していない」 と乗っかってくる また友達も善意から 「君は神を十分に愛していないから そんなことしてしまうんだよ」 「神を十分に愛しなさいよ」 と言ってくる 神を愛するのが素晴らしいのは もちろんです だけど私たちは まず愛されなければ 愛せはしないということを 神は私たちに伝えてくれているのです "わたしがあなたがたを愛したように 互いに愛し合いなさい" イエスが花婿であり 私たちは花嫁です イエスは私たちを 完全さへと愛しました イエスは私たちを 神聖さへと愛しました イエスは私たちを shalomの平安へと愛しました イエスは私たちを愛しました そして私たちが愛するのは 彼がまず 私たちを愛してくれたからです そして神は "私たちの罪のために" "宥めのささげ物としての御子を 遣わされました" 十字架を忘れてはいけません この愛は 「わたしは 君たちの罪に目を瞑るよ」 「なかったことにするよ」 という愛ではありません この愛は私たちの罪を見た上で それをイエス・キリストの十字架で 拭い去る愛です その根拠があるから 不敬虔な私たちが 義と認められることができます では11節を見てください "愛する者たち" "神がこれほどまでに 私たちを愛してくださったのなら" "私たちもまた 互いに愛し合うべきです" そして次に16節に こう書かれています "私たちは自分たちに対する神の愛を知り また信じています" 質問です 皆さんは神があなたを愛している と知っていますか? それを信じていますか? この二つの質問は別物です 頭で知ってはいるかもしれないけど それを信じていますか? あなたは自分たちに対する神の愛を 信じていますか? 「いやマーク牧師を神が愛しているのは 知っているよ」 「誰だって マーク牧師を愛しているよ」 「誰だって神だって マーク牧師のことを愛するだろうさ」 「ねえ? だけど私を誰が愛すっていうのさ」 このように考えている人がいませんか? 「あの人が愛されるっていうのは わかるけど」 「こんな私を 誰が愛してくれるのさ」 神はあなたを愛しています あなたはそれを信じますか? もちろんそれを信じるのが 難しい時はあります 皆さんにも経験があると思います それは状況が思わしくない時です 状況が悪くなると 私たちはどうしても イライラしてしまいますね そんな時にテーブルの足に つま先をぶつけでもしたら 叫び出してしまうかもしれません その時出てくる言葉は 「ハーレルヤ」ではないでしょう でもそんな時にでも 「神が自分を愛しているのを 頭では知っているよ」 と言うのは そんなに難しいことではないでしょう だけど信じなきゃ 神があなたを愛していることを 信じなきゃ いいですね いいですね? 自分たちに対する神の愛を知り また信じることが重要です "私たちは自分たちに対する 神の愛を知りまた信じています" "神は愛です" "愛のうちにとどまる人は 神のうちにとどまり" "神もその人のうちに とどまっておられます" "こうして愛が 私たちにあって全うされました" この文構成をよく見てください 「私たちの愛が全うされた」 ではなく "愛が私たちにあって全うされた" です つまりこの愛とは イエスの存在そのもののことなのです では読み進めます "ですから私たちは さばきの日に確信を持つことができます" "この世において私たちも キリストと同じようであるからです" これは「今のキリスト」と 同じようであるということです つまり今 栄光と誉れの冠をかぶせられて 父の右の座にいる すべての支配、権威、権力、 主権の上に また となえられるすべての名の上に置かれた もう二度と死ぬことのないキリストと 私たちは同じようであるのです ガリラヤ湖畔を歩いた 低い身分の大工のイエスと 同じようなのではありません そのイエスも 栄光に満ちてはいて 病人を癒し 盲目の目を開き 聞こえない耳を聞こえるようにし 死人を蘇らせました そのイエスと同じようであるだけでも 最高に嬉しいことです でもこの箇所には 「この世において私たちは 今のキリストと同じようであるのです」 と書かれています 私はこの真理を 今病気で苦しんでいる人たちにも 適用できるものとして教えています 神はこの啓示を何年も前に 私に与えてくれました そしてそれを聞いた方々は 次のように言って 次々と 癒しを経験していきました 「イエスは今天国で 糖尿病を患ってはいない」 「この世において私も 今のキリストと同じようである」 「この世において私も 糖尿病ではないキリストと同じように」 「糖尿病ではない」 私がこの真理についてのメッセージを 初めて語った時 ある女性が 胸のしこりに苦しんでいました そしてそのしこりは 病院でも既に診断済みでした しかし彼女は 「イエス あなたにはしこりはありません」 と宣言し始めました 実際彼女は自分の診断書にも 「この世において私も キリストと同じようである」 「イエスには しこりなんてあるだろうか」 と書いていて それを私にも見せてくれました その週彼女がもう一度病院に行って 診断を受けると そのしこりは もうなくなっていました だから私たちは何に対しても "この世において 私もキリストと同じようである" と宣言できます イエスは今 強く元気でもありますよ また若くもありますよ 聖書には "あなたの若さは朝露のようだ" とあります アーメン またキリストが聖であるように あなたも聖です キリストが義であるように あなたも義です キリストが 神の淀みない好意の下にあるように あなたもその好意の下にあります アーメン キリストが コロナウイルスの遥か上にいるように あなたもその遥か上にいます 私はそれを 付け加えることにしました 私は時にコロナウイルスからの守りを 祈るのではなく こうとだけ祈ります 「天のお父さん 私がコロナウイルスの遥か上で」 「あらゆる病気の遥か上で」 「悪魔の遥か上で」 「キリストと共に座らされていることを ありがとう」 信じられないほど素晴らしいことに 詩篇91篇の作者が夢で見たことが 私たちの現実となったのです "いと高き方の隠れ場に住む者" この"住む"は 「座る」という言葉です つまり 「いと高き方の隠れ場に座る者」 "その人は全能者の陰に宿る" 今日私たちがキリストと共に座している その場所がこの隠れ場です そして天上にある 全ての霊的祝福は キリストにあって 私たちに与えられています だから お願いするのではなく 宣言し始め 感謝し始めましょう 最近私が エクササイズに行った時のことです 大体私は暗くなる頃に エクササイズに行きますが その日は夕暮れ時に ある自然保全公園に行きました それがどの公園かは秘密です 私はエクササイズはできる限り 一人でやりたいのです その時日は暮れていき 辺りは暗くなっていきました エクササイズし始めた時は まだ少し明るかったのですが どんどん 暗くなっていきました 私はその日のエクササイズでは 軽いインターバル走をしていました 走っては歩いて 呼吸が整ったらまた走っては歩いて という繰り返しです だけど私がそれをしていると 2つの声が 頭に聞こえてきました 外側からの声は 「走れ」という声 内側からの声は 「走るな」という声 私の論理的思考は 「歩くより走った方が良い」 と語ってきます 走った方が 心拍数が上がって 短い時間でより多くのカロリーを 消費できるからです それはともかく 私は歩いている間に 今日掘り下げている これらの聖書箇所に 思いを巡らしていました 私は歩いている間は大抵 神の言葉を思い巡らすように 心がけています それは私にとって 神とアダムがエデンの園で 散歩をした時間のようなものなのです 私はそこで牛のように 暗記している聖書箇所を反芻します そしてこの日は そのエクササイズを始める前に 私の心からある祈りが 湧き出てきました ちなみに私はエクササイズをする前に いつもこう祈ります 「どうか怪我から守ってください」 「危険からも守ってください」 「何かに感染してしまうことからも 守ってください」 このように一般的な祈りを 私はエクササイズの前にします そして次のようにも祈ります 「私のエクササイズを 祝福してください」 「私を健康にするのは 私の努力ではなく」 「あなたの祝福だから」 普段はそのような祈りをします でもこの日はこのような祈りが 湧き出てきたのです 「天のお父さん 私を蛇から守って」 そんな祈りをすることは あまりありません 実際「蛇から守って」と祈った記憶など 他にありません だから私は 心でこう笑ってしまいました 「蛇に特定して『蛇から守って』 と祈るなんて面白い祈りだな」 ちなみにこの自然公園には 蛇は確かにいます だけど私はその蛇について 次のような記事を読みました 「彼らはそっとしておけば 道に出てくることはない」 「彼らは人がそこにいることを察すると そこには出てこない」 蛇はそういう動物ですよね 彼らは私たち人に遭遇することを 嫌います だけど私はその日なぜか 「蛇から守って」と祈っていたのです その日私はエクササイズ中に 外側から「走れ」という声を聞き 内側から「歩け」という声を聞いたと 言いましたね そう言ったときに 私たちが聞くべきなのは 内側からの声です 悪魔は あなたの内側にはいないからです 最高ですね? 神である聖霊が あなたの内側にいるのです そして悪魔がいるのは外側です 外側からあらゆる力が働いて 説得しようとしてくるとき 内側に耳を傾けましょう そして明確な青信号が出ていなくて 黄色信号ならば待ちましょう 黄色信号は 「待て」ということです 神の信号機を やり過ごそうとはしないでください 黄色信号ならば さらに求めましょう そして大切な人たち 特に奥さんに相談してください アーメン 青信号なら動いてください アーメン とにかく私は内側からの声に 聞き従うようにしています そのときは内側の声が 「歩け」と言ったので歩きました そして歩いていると道の先の真ん中に 枝のようなものが見えました ちなみにそのとき 私は一人でした それはまるで 曲がった枝のように見えました そして私が歩き続けて その枝のようなものから 60cmくらいのところまで来たとき ついに私はそれが 蛇であることに気付きました しかもその蛇には三角状の模様が あったので それは毒蛇でした その三角状の模様は 月夜の明かりに照らされて あやしく輝いていました でもその蛇は 動いていなかったので 私はそれが死んでいるものだと 思いました だけどその蛇はなぜか 私が歩いている道のど真ん中に 居座っていたのです まるで私を 待っていたかのようでした でもその蛇を見ると 頭がぺたーんと倒れていて やっぱり死んでいるようです 果たして誰かに殺されたのか 何か他の理由で死んだのか とにかく 死んでいるようでした でも念のために 私はその蛇を避けながら 忍び足で そこを通り過ぎて行きました そしてすぐに走って そこから離れました でも私の後であるカップルが そこにやってきました だから私はその彼らに こう呼びかけました 「おーい」 「そこに死んでいるとは思うけど 蛇がいますからね」 それに彼らが「わかりました」 と答えると 蛇がキュッと 素早く向き直って 私が歩いてきた道に向かって 去っていきました その蛇は 死んではいなかったのです すると そのカップルの女性の方が 「こわーい」と叫びました そして「動きもはやい」 と言いました 私はその蛇が死んでいる と思っていて その蛇の脇をとてもゆっくり 通り過ぎていました だけどその蛇は実際 すごい速さで動きました その時私はその日祈った 次の祈りを思い出しました 「蛇から守って」 ちなみに今この話をしているのは シンガポールですからね シンガポールを知らない人たちのために 念のために言っておきますが シンガポールでは あらゆる高層ビルの陰に蛇がいる などということは 一切ありませんからね シンガポールは そのような場所ではありません ちなみに私はその夜の間中 その蛇に夢でうなされました 私は神に 「救ってくれてありがとう」と いくら感謝しても 感謝しきれませんでした このようなことがあるので 皆さんも一週間 私がメッセージを準備している間 私のために 祈っていてほしいんです いいですね? アーメン それでは今日のメッセージを 締めくくっていきましょう 私たちが下す決断は 神の愛を 根拠としているべきです 「神が私たちを愛している」という 理解が不足しているがゆえに 私たちは直面する困難に どう対処してよいのかが分かりません 特に教会においてです でも人生における困難や問題や 疑念においてもです 「ではそれらに対する答えは どこに見出せる?」 「神にその答えがある と言うけど」 「神はそれを教えてくれていない ように感じる」 「神はどうやって教えてくれるの?」 あなたは自分の困難や 疑念に対する答えを 神に語ってもらいたいですか? 語ってもらいたいですよね? このメッセージを終える前に その方法を伝えたいと思います 本当にそれを求めていますか? 分かりました まず第一に 神は多くのことを隠しています 真理は明かされています 実体も明かされています 旧約聖書で 影だったものの実体は 新約聖書で明かされています しかし多くの場合 影の方に 実体にはない 詳細が秘められています 実体はただそれが何であるのかを 物語っています だけどその中身をさらに知るためには 影を見ます 例えば私たちの大祭司である イエスについても 旧約聖書から多くが分かります 今から伝えるのが 息子が「へーすごい」と言ったことです 神は天国で大祭司としている イエスの描写を 旧約聖書の大祭司で示しました 旧約聖書の大祭司は このような格好をしています だけどこれはイエスが このような格好をしている ということではありません この外部的な特徴は イエスの内部的な特徴を 表しているにすぎません そして今日のメッセージでは 大祭司のこの胸当てだけに 焦点を当てていきます では今この胸当てを クローズアップします ここにはめられた 十二の宝石には それぞれにイスラエルの十二部族の 一つの名前が刻まれています 今これらが全部宝石である という点に注目してください ルビー ダイヤモンド 紫水晶 サファイア そのどれもが とても高価な宝石です そしてそれらの宝石が 大祭司の心臓の部分に 埋め込まれています 心臓は愛を表しています ここまでよろしいですか? 心臓は愛を表しています "互いに愛し合いなさい" という新しい戒めを 私たちはどう守れるでしょうか? 私たちは 自分の兄弟姉妹たちを イエスの心臓に埋め込まれたもの として見る必要があります 私たちは彼らを大祭司の心臓の上に 見なければいけないのです そしてイエスは自分の愛に 埋め込まれた私たちのことを 尊い宝石のように 見ているのです そしてその時 私たちの個性も失われてはいません この胸当て上でも それぞれの部族に それぞれの色があります イエスの前で私たちは皆同等に 高価で尊いものですが それぞれが特別であり 独特であり個性的です 指紋でさえ世界中に同じものは 二つと存在しません それと同様に世界中に あなたと同じ人は存在せず そのあなたを神はただ 共同体の一部としてではなく 一人の個人として愛しています ここまでよろしいですか? では今ヨハネ13章に戻ります 聖書はこう述べています "イエスはこれらのことを 話されたとき心が騒いだ" "そして証しされた" "「まことにまことに あなたがたに言います」" "「あなたがたのうちの一人が わたしを裏切ります」" "弟子たちはだれのことを 言われたのか分からず" "当惑し 互いに顔を見合わせていた" この時点で それは大きな疑問でした 「誰が私たちの主を 裏切るのだろうか?」 例えば現代で言うならば 「誰がこの取引を妨害しようと しているのだろう?」 今日であれば あなたはそのような質問をするでしょう そして その答えが知りたいですよね? アーメン 「私はなぜ この問題を抱えているのだろう?」 「私の体にはなぜ このような問題があるのだろう」 「その原因は 食べているものなのか?」 「その原因は 使っている枕にあるのか?」 「その原因は何なんだろう?」 その答えを 神から受け取りたいですよね? 今からその秘訣を 皆さんに伝えたいと思います でもその時間はあるでしょうか? 皆さんが 「イエス」と言いましたからね 冗談です 時間はちゃんと気にしているから 心配しないでください 少し意地悪しただけです "弟子たちは… 互いに顔を見合わせていた" 皆さんも知っての通り 顔を見合わせることは 解決にはなりません 私はあなたを見て あなたは私を見る 私は彼を見て 彼は彼女を見る だけど答えを持っているのは イエスですよね それはこの場面でもそうでした "弟子の一人がイエスの 胸のところで横になっていた" "イエスが愛しておられた 弟子である" この「イエスが愛しておられた弟子」 という言い回しは ここで初めて登場します そしてそれが登場するのは その本人である ヨハネの福音書だけです ヨハネはイエスの自分への愛に しっかりと気付いていたのです このヨハネが先ほど読んだ 第1ヨハネの箇所を書きました "私たちは自分たちに対する神の愛を知り また信じています" ヨハネは それを信じていた男でした イエスはそこにいた弟子たちを 皆同様に愛していました イスカリオテのユダさえもです だからイエスは 最大限の優しさを込めて ユダが裏切り者であることを 伝えました イエスはこう言ったのです "「わたしがパン切れを浸して与える者が その人です」" この"パン切れを浸して与える"とは 大事な客人に対して成す行為です それは自分の手で 手巻き寿司を巻いてあげて 大事なお客さんに 手渡すようなものです 自分が愛する大事なお客さんには そうしてあげるのは 全く苦ではありませんね それは相手を重んじる行為でした イエスはピタパンを取って それにハマスを塗って ユダにそれを渡したのです これは一番大事なお客さんに対して する行為でした では今読んでいた箇所に 戻りましょう "弟子の一人が イエスの胸のところで横になっていた" "イエスが愛しておられた弟子である" これはイエスがヨハネを特別に 愛していたということではなく ヨハネがイエスの自分に対する愛を知り 信じていたということです だからヨハネは ヨハネの福音書を書いたとき 自分のことを 「イエスが愛しておられた弟子」 と書いたのだと思います ヨハネの意識はいつも その愛に向けられていました ヨハネの意識は 「私たちが神を愛するんだ」 という律法にではなく 神が私たちを愛しているという 恵みに向けられていました この同じヨハネが 先ほどの第1ヨハネの手紙も書きました とにかくこの時彼は イエスの胸のところで 横になっていました "そこで シモン・ペテロは彼に" "だれのことを言われたのか 尋ねるように合図した" シモン・ペテロは ヨハネに合図をしました それはその時ペテロが イエスからの距離を 感じていたからでしょう 彼はその時どういうわけか イエスを近くに 感じられていなかったのです ちなみにヨハネの名前の Yohananは ヘブライ語で 「神の恵み」という意味です ペテロの意味は「石」です 神が律法を刻んだのは 石でしたね いいですか? そしてペテロは「自分ならできる」と 自分を誇ってしまいます ヨハネ13章の最後の部分に その場面があります "ペテロはイエスに言った 「主よ、なぜ今ついて行けないのですか」" "「あなたのためなら いのちも捨てます」" "イエスは答えられた" "「わたしのために いのちも捨てるのですか」" "「まことにまことにあなたに言います 鶏が鳴くまでに」" "「あなたは三度 わたしを知らないと言います」" ここでペテロは 自分のイエスへの愛を誇る クリスチャンを象徴しています このペテロの愛は 嘘ではありません ペテロは自分のイエスへの愛は 信頼に値すると考えていたのです だけどどうでしたか? その夜が明けるまでにペテロは三度 「イエスを知らない」と言いました だけど自分のイエスに対する愛 ではなく 自分に対するイエスの愛に頼った 弟子がいました では今もう一度 23節から25節に戻りますよ 自分のイエスに対する愛に 頼っていたペテロは イエスとの距離を感じていました イエスに対する自分の愛に頼るとき 私たちは必ず イエスとの距離を感じてしまいます それはイエスが 私たちを避けているのではなく 自分の側で 何かがおかしいのです 私たちはもっと不動で 不変で完全に固まった 揺らぐことのない土台に 頼る必要があります そしてそれは イエスの私たちに対する愛です 私たちのイエスへの愛は 風のように揺れ動いてしまいます またはそれは風が吹くたびに 吹き回される枝のようです しかしイエスのあなたへの愛は 定まって揺らぐことがありません イエスは あなたを最後まで愛された 極限まで愛された アーメン だから私たちは ヨハネと同じように その揺らがない土台に 立つ必要があります ここでは 律法を象徴しているペテロは イエスに対する自分の愛に頼っている クリスチャンを象徴しているペテロは イエスの愛に寄りかかっている人を 象徴している者に 合図する必要がありました 当時彼らがどのように食卓を囲んで いたのかを示す画像を見てください 彼らはこのように背中を倒して テーブルにもたれかかっていました そしてここでイエスの右側にいるのが ヨハネです ヨハネはイエスの右にいます そしてその場所からは イエスの胸に寄りかかるのは とても楽なことでした ちなみにヨハネは この中で最年少です そのヨハネが イエスの胸に寄りかかっていたのです ここでイエスの左側にいるのが イスカリオテのユダです 彼はそこで お金を数えていますね 金袋は 彼の手元にありました ここでペテロが イエスに直接 「あなたを裏切るのは誰ですか?」 と聞くのは 何もおかしなことでは なかったはずです でもこの時ペテロは 距離を感じていました だから「この人だったら イエスも耳を貸してくれるだろう」 というような人に ペテロは合図を送ったのです その相手がヨハネでした では実際に読んでみましょう "そこでシモン・ペテロは彼にだれのこと を言われたのか尋ねるように合図した" "その弟子はイエスの胸元に 寄りかかったままイエスに言った" "「主よ それはだれのことですか」" ヨハネはイエスの胸元に 寄りかかったまま 「それは誰のことですか?」と イエスに聞いたのです ヨハネはただ「主よそれは 誰のことですか?」とは聞きませんでした イエスの胸元に 寄りかかったまま聞きました つまり彼は自分に対するイエスの愛を 主張したのです 彼は「主よそれは誰のことですか?」 と聞く前に 自分に対するイエスの愛を 主張しました いいですね? ではヨハネは 答えを得たでしょうか? 次の節です "イエスは答えられた「わたしがパン 切れを浸して与える者がその人です」" ヨハネは答えを得ました ちなみにAMP訳では ヨハネがイエスに これを「内密に聞いた」とあります つまりイエスを裏切るのが 誰かを知っていたのは ヨハネだけだったということです "それからイエスは パン切れを浸して取り" "イスカリオテの シモンの子ユダに与えられた" "ユダがパン切れを受け取ると そのときサタンが彼に入った" この最大限の愛の行為を ユダは拒絶しました これが最終勧告となり ユダがその愛を跳ねのけた瞬間 サタンが彼に入りました "するとイエスは彼に言われた" "「あなたがしようとしていることを すぐしなさい」" "席に着いていた者で なぜイエスがユダにそう言われたのか "分かった者は だれもいなかった" "ある者たちはユダが 金入れを持っていたので" "「祭りのために 必要な物を買いなさい」とか" "貧しい人々に何か施しをするようにとか イエスが言われたのだと思っていた" "ユダはパン切れを受けると すぐに出て行った" "時は夜であった" この"時は夜であった"を 忘れないでください 霊的に言って それはユダにとっての夜でした そしてそれはユダにとって もう朝が訪れない夜でした ユダは夜の中へと 出て行ってしまったのです いいですか? 自分はイエスの弟子であると 公言しながら 本当は救われていなくて イエスを売ったり裏切ったり さえする人がいます だけどイエスの胸に寄りかかっている 弟子もいます 私が今日 このメッセージを語っているのは あなたがイエスの胸に寄りかかる その弟子になることを 励ましたいからです では今もう一度 大祭司についてに戻ります 今一つの話をして このメッセージを終えていきます それはダビデの人生における ストーリーです ダビデが部下たちとともに 家族をツィクラグの町に残して 遠征に出て行った時 ツィクラグの町が敵に攻められて ダビデと部下たちの家族が皆 生け捕りにされて 連れ去られてしまいました その時のことを 第一サムエル記30章6節から読みます "ダビデは大変な苦境に立たされた" "兵がみな自分たちの息子、娘たち のことで心を悩ませ" "ダビデを石で打ち殺そうと 言い出したからだった" "しかしダビデは自分の神 主によって奮い立った" 想像してみてください ニュークリエーションチャーチの皆が ジョセフ・プリンスを 石で打ち殺そうとする するとジョセフは自分の神 主によって奮い立つ アーメン マーク牧師が 誰よりも大きい石を手に取る ローレンス牧師は ダンベルを投げつけようとする しかしジョセフは自分の神 主によって奮い立った 冗談はさておき これを見てください "ダビデはアヒメレクの子 祭司エブヤタルに言った" この時の祭司はアロンではなく エブヤタルでした アロンはこの時から何百年も前に 死んでいたからです "ダビデはアヒメレクの子 祭司エブヤタルに言った" "「エポデを持って来なさい」" エポデとは あの胸当てのついた大祭司の着物です このエポデについて 出エジプト記28章15節には こう書かれています "決断を下すための胸当てを 作りなさい" これは口語訳や新改訳では 「さばきの胸当て」と訳されていますが それでは間違ったイメージを 生んでしまいます 神はあなたを裁くために イエスの愛の心臓に あなたを据えたのではありません ここで用いられている言葉は mishpatで 「決断を下す」という意味でも 用いられる言葉です だからこの胸当ては 決断に用いられていたのです そして30節では 神がこう述べています "またその胸当てには ウリムとトンミムを入れ" ウリムとは 複数形の「光」です トンミムは 「完璧」を意味します ウリムの頭文字はaleph トンミムの頭文字はtavで aleph-tavです 聞いてくれましたか? 今は説明なしで 素早く進んでいきますからね とにかく「光たち」と「完璧」が 大祭司の胸にある 決断を下すための胸当てに 入っていたのです ではそのことを頭に入れてもう一度 ダビデのストーリーに戻りましょう 第1サムエル記30章7節 "ダビデは…言った 「エポデを持って来なさい」" "ダビデは主に伺った 「あの略奪隊を追うべきでしょうか」" "「追いつけるでしょうか」 するとお答えになった" "「追え 必ず追いつくことができる」” "「必ず救い出すことができる」” ここで「追え」と訳されている言葉は radaphです 皆さんご一緒に 「radaph」 radaphの綴りはこうです ヘブライ語は 古代中国語のように 右から左に読むんでしたね Reish、dalet、peiです ちなみにこれは 長い方のpeiです peiには 短いのもあります とにかく このradaphが「追う」という意味です そして「追え」と言った神は その時さらに何と言いましたか? "「必ず救い出すことができる」" です そして本当にそうなりました ダビデとその部下たちは 略奪隊を追って 奪い取られた全てのものを 取り戻しました 奪われたもので失われたものは 一つもありませんでした しかもそれだけでなく 多くの戦利品も得ました ハレルヤ よろしいですか? でもこの時ダビデは どう答えを得たでしょう? エポデを持ってこさせました 胸当てがついた 大祭司のエポデをです そしてこう願いました 「神よ語ってください」 「奴らを追うべきでしょうか?」 神はそのダビデに どうやって答えたと思いますか? ユダヤの歴史書にはそのことが 次のように書かれています 私の霊も それが本当だと思います それはその胸当てには 黒と白の石が入っていて 取り出した石が黒だったら 赤信号 白だったら 青信号というものです 私たちもそんな風に決断ができたら 簡単ですね 「どの大学に行ったら よいでしょうか?」 出てきた石が黒だったら 「あ〜この大学はダメだ」 でも出てきた石が白だったら 「あ〜この大学でいいんだ」 そんなやり方はしないでくださいね 思い出してください ここに描かれているのは 影であり型です これは霊的な真理を示すために 外側に表されているものです ここで私が 皆さんに伝えようとしているのは 神に導かれた決断を下すための鍵は イエスの愛の心に目を向けることだ ということです つい先ほども言及しましたが ヨハネは「主よ、それは 誰のことですか?」と聞くときに イエスの胸元に寄りかかったまま それをしました あなたが神に 何かをお願いするとき 私が今 皆さんに伝える言葉を 最後に付け加えてもらいたいと 思います それが導きを求める祈りであっても 知恵を求める祈りであっても 「蛇から守って」というような 神が何かをしてくれるように願う 祈りであっても 神が私に示してくれたこの言葉を 付け加えてください それは恵みの言葉です だけどただ 機械的に言ってもダメです 魔法のように唱えてもダメです 心を込めて言ってください その言葉とはこれです 「だってあなたは 私を愛しているのだから」 「天のお父さん 私のためにこれをしてくれる?」 「この病気を癒して」 「だってあなたは 私を愛しているのだから」 これによってあなたの信仰は これまでにないほどに 働き始めます それはあなたがヨハネのように イエスのあなたへの愛を 主張しているからです ヨハネは自分に対する イエスの愛に寄りかかったまま イエスに答えを求めました ヨハネは 自分のイエスに対する愛ではなく 自分に対するイエスの愛に 頼ったのです だからあなたも 次のように祈り始めてください 「神様私はこれをすべきでしょうか? あれをすべきでしょうか?」 「ここに行くべきですか? あそこに行くべきですか?」 「どうか私を導いて」 「だってあなたは 私を愛しているのだから」 この一言は あなたの視点をひっくり返してくれます 機械的ではダメです 心を込めて 「だってあなたは 私を愛しているのだから」 神は皆さんに伝えるようにと 私にこれを示してくれました アーメン ではこの「追え」という言葉に 戻ります ところでこの時ダビデは エポデの胸当てによって 神の導きを求めたはずです 神は聖書の中に ある特定の文字を配列しておき それらをプシューと 浮き上がらせることがあります この箇所にも その一つの例があります 息子のジャスティンは これに興奮していました では今これを見てください radaph Reish、dalet、peiですね ちなみにここで使われているのは 長い方のpeiです radaphを構成する これら三つの文字は イスラエルの十二部族のうちの ある三部族の名前に含まれています ではこれを見てください ダビデは決断を下すために 祭司エブヤタルの胸当てを見ました まず最初にReish ルベン部族からです dalet Yahuda、ユダ部族からです 次にpeiがきます これは短い方ですが pei エフライム部族からです これら三つでradaph このように神は語りました Reish、dalet、pei 追え わかりましたか? 私たちがこのような導きを 受け取れるのは素晴らしいですね でも私がここで伝えたいのは 次のポイントです それは当時の王や祭司や 預言者たちへの導きさえも 大祭司の心臓部を見ることによって 与えられたということです その時まず第一に しなければいけないことがあります それは皆を見るということです あなたを批判する人さえをもです 私が自分を批判する人を どのように見ているか知っていますか? イエスの胸当てにはめられた 尊い宝石としてです この教会の牧師陣は 皆それを知っています 私は自分を批判する人たちを 言及するとき いつもイエスの胸当てに はめられた尊い宝石と呼んでいます 神にとって尊い存在は 私にも尊い存在です イエスが愛する存在なら 私も愛します 私は彼らに対して 許せない思いも苦みもありません アーメン 私たちは神の子どもたち皆を 尊い存在として見なければいけません それをするとき 本当に素晴らしいですよ 神の子どもたちを尊い存在として 見てください あなたの子どもたちや奥さん旦那さんを 尊い存在として見てください 彼らの失敗や欠点に 囚われるのではなく 神が彼らを見ているように 彼らを見るのです 彼らはイエスの胸当てにはめられた 尊く愛おしく美しい宝石なのです なぜですか? イエスの義が 彼らを覆っているからです アーメン これがまず 第一にするべきことです 神に知恵を求めるとき それが何かの疑問に対する 答えであっても 進むべき方向についての導きであっても それを求めるとき まず第一に誰に対する苦みも 抱えていないようにしましょう 「あいつはろくでなしだよ」 「宝石なんかじゃないよ」 そんなことを思いながら 胸当てを見てはいけません 私たちの愚かさにもかかわらず イエスは 私たちを愛してくれているのだから 私たちも周りの人に同じように しなければいけません 彼らを尊い存在として見て 彼らの存在を神に感謝しましょう 「でもプリンス牧師 彼らはまだ批判してくるよ」 それは神に 対処してもらってください あなたはただイエスに目を留めて イエスに付いていけばよいのです 敵は全力を尽くして あなたがイエスから目を逸らすようにと 働きかけてきます 私が早く走りすぎて 神が語ってくれていることを 聞き逃すなら 私は自分を批判する人を 踏みつけてしまうでしょう 私はランニングをしているときに 小枝を踏み砕くのが好きです だから小枝が見えたら わざとそっちに行って踏み砕きます ぐちゃっ 「うわー」と気持ちいいんですよ だけど自分を批判する人に それをしてしまってはいけません アーメン よろしいですね これがまず第一です イエスの心臓部を見るとき 神の子どもたち皆を イエスの胸当てにはめられた 尊い宝石として見ること アーメン では第二にすべきことです 神に願うとき こう言ってください 「神様 このことについて助けて」 「だってあなたは 私を愛しているのだから」 「このことについての知恵を 与えて」 「だってあなたは 私を愛しているのだから」 アーメン イエスの愛に 寄りかかってください それがイエスの愛を使う ということです そして知っていますか? イエスは使ってもらうのが 大好きです ある女性がイエスに触れて イエスの力を使ったとき イエスはそれが誰なのかを 知ろうとしました 「わたしの力を使ったのは誰だ?」 「ああ娘よ 安心して行きなさい」 イエスは使ってもらうのが 大好きです それは彼が愛と優しさで 満ち溢れているからです イエスには すべての必要を満たすことができるのに 人々が自分で自分のことを なんとかしようとしているのを見るのが イエスはつらいのです ここで時間切れです 神を讃えます イエスに賛美を ハレルヤ イエスは私たちに 新しい戒めを与えました イエスが私たちを愛したように 私たちも互いに愛し合うのです アーメン 神を讃えます まだあなたがキリストに 信頼を置いたことがなくて 自分の罪が赦されているのかが 定かではなかったら よく聞いてください 今あなたは信仰による義を 贈り物として受け取ることができます この祈りを一緒に祈ってください 「天のお父さん 今宣言します」 「天のお父さん 今宣言します」 「イエス・キリストは 私の主です」 「私はキリストが 私を愛しているがゆえにご自身を捧げ」 「私の罪のために 死んでくれたことを信じます」 「そして三日目に」 「天のお父さん あなたは彼を死から蘇らせました」 「そして イエスがあなたの右の座にいて」 「あなたが彼に 栄光を与えたからこそ」 「今あなたの聖霊に私を浸し 聖霊で私を満たしてください」 「イエス・キリストが私の主です」 「イエスの名によって アーメン」 たった今あなたが この祈りを祈ったなら 今あなたは いと高き神の子どもです 神があなたの父であり 今あなたは キリストと共に座らされています アーメン 教会に来続けてください 神の言葉を聞き続けて 御言葉による水の洗いをもって 洗われ続けてください では皆さん立ち上がりましょう 今週も神があなたのことを気にかけ 必要を満たしてくれますからね だって神は あなたのことを愛しているのだから アーメン 神の微笑みが あなたに注がれますように 信仰の父アブラハムに約束された祝福で 神があなたを祝福しますように 申命記28章の祝福で 神があなたを祝福しますように 天上にあるすべての霊的祝福をもって 神があなたを祝福しますように 神があなたを今週の間中 あらゆる危害から 守ってくれますように 神があなたの行く先にある 曲がった部分をまっすぐにし 蛇のいない道にしてくれますように 神があなたとあなたの大切な人たちに 微笑みかけ shalomの平安を 降り注いでくれますように 主イエスの名によって それでは皆さんご一緒に アーメン 神の祝福がありますように

困難な決断や問題に直面した時、神様から解決策を聞けたらいいと思いませんか?愛される者たち、それは可能なのです!このメッセージでは、プリンス牧師が「神様のあなたへの愛を信頼すること」がどのようにして神様から答えを聞き、正しい決断を下す鍵であるのかを話してくれます。イエスの揺るがない愛を信頼することが、どのようにあなたを力強い祈りへと導き、成功に繋がる選択ができるように導いてくれるかを発見していきいましょう。あなた自身が神様に愛された者であることを「知ること」と「信じること」の違いを学びましょう。また、神様を遠くに感じてしまう難しいシーズンの中にあっても、神様の愛に身を委ねる方法を見出しましょう。このメッセージに励まされ、神様があなたの強力な味方であるという啓示を受けて、今日から実践的な知恵を歩んでいくのです!

エピソードについて:
2024年2月18日のジョセフプリンス牧師の「神様に導かれよう」のメッセージです。

00:00 01 はじめに: 神様の完了された業は、あなたの強固な土台
13:00 02 あなたの召使の王であるイエスを、知っていこう
24:46 03 神様の愛を差し伸べよう
41:11 04 神様は愛をどう定義している?
58:49 05 素晴らしい決断の下し方
01:09:27 06 愛に始まる、神様の導き
01:19:30 07 救いの祈り& 祝福のための祈り


ぜひ証や記事、他のリソースを楽しんで下さい!
ウェブサイトはこちらから: https://www.newcreationtv.org/jp

このメッセージを聞いてあなたの人生の中で、イエスが行ったブレイクスルーをお聞かせください。こちらのオンラインフォームからお送りください。
https://bit.ly/nctv-japan-testimony

お祈りのリクエストがあればこちらのオンラインフォームからお送りください。
https://bit.ly/nctv-japan-prayer

その他のお問い合わせはこちらのオンラインフォームにお問い合わせください。
https://bit.ly/nctv-japan-enquiry

この動画の内容は、専門的な医学アドバイスと比較して優位とされるものではありません。もし愛する人が健康上の問題を抱えていたり、身体疾患を患っているとしたら、医師免許保持者や医療提供者に相談してください。また動画の内容は、薬の服用や治療の中断を促したり、それを許容するものではなく、そのような解釈をすることは一切お控えください。私たちはいかなる保証もせず、結果は個人により異なることを理解する一方、皆さんが健康面や医学的問題に関して神の知恵と導きを常に祈り求めるよう励まします。私たちは今後も信仰に立ち、神のみことばと信じるすべての人に与えられた癒しの約束を信じ、それを主張します。

#JosephPrince日本語 #ジョセフプリンス日本語 #NCTV日本語 #JosephPrinceJapanese #NCTVJapanese

Comments are closed.